吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

人生は面白いなあー

 と棒読みしてしまうわけですが。さっき、仕事の話で人に連絡したら「今から雨宮さんに紹介してもらったAV観てスッキリして寝ます!」と元気良く答えられた。そんなことしたら余計興奮して寝れないんじゃないかと指摘すると「むしろグッタリするからよく寝れる」と言ってた。夜寝れない悩みがある人は雨宮さんにAVをすすめてもらうといいと思うよ。エクス・ポで連載している悩み相談室にぜひ、参加してください!すると、いろいろ無駄に元気になっていいですよ。

 今日からニートなのでニートの楽しさを甘受してたら死ぬほど楽しい。さすがに5年会社勤めた上で辞めてるから、極上のご褒美と言っていい。ごはんを食べても、歩いていても、ただただ楽しい。自分に合わない苦しい仕事はするべきだね。やっとくとそれから解放されたときに幸せを噛み締められるから。人生設計的には博打路線まっしぐらで逃げ場なし!必死さに磨きがかかります。とりあえず、いろんな準備で忙しいですが、頑張ります。金にならないことばかり節約しながらやるしかないですね。家族に危篤者がいるので日々、不安もありますが。将来が明るいなんて楽天的には思ってませんが、とりあえず見えている範囲の世界は明るい。それを信じるしかないくらいのギリギリですけど、それくらいの状態が今はとても気持ちが良いし、自分の中で矛盾を抱えなくていろいろクリア。これはとても精神上好ましい状態です。これが噂のニートピアですか。

 とりあえず、5月11日の文学フリマの原稿が終わったので一息つきつつ、次の原稿がちょっと変わったことするので早めに用意しつつ、それの〆切が来週なので、それをやらねば。その前に終わった原稿を一部手直し。これはけっこう気に入ってるし、その次のプロットまで練ってるので早く書ききりたい。世界を作ってぶっ壊すのって、ほんとうに楽しいよね!それが残酷なほど楽しい。これは大友克洋から学んだ破壊の美学!創作は楽しい。まさか、書きたいことが自分の中からこんなにあふれてくるとは。

 んで、文学フリマではマンガ評をやるつもりなんですが、これ、実はマンガ評ではなくって、どれだけマンガにのめりこめるバカになれるか論みたいな感じになる予定。最終的に3部作にしたくて、その序曲として考えている。
 現在のマンガ批評に対するカウンターをやりたいというか、カウンターって言うか、そこで拾いきれていない部分に光を当てないと書く意味がない。いつも思うのがマンガ評論家じゃない人がマンガ批評をしたらオモシロイなあ、っていうのがあって、今回は寄稿頼んだりしてないけど、次回はいろんな人にマンガ批評を頼みたい。その際に、頼む基準は「その人がどれだけその作品に対して、愛情もしくは憎しみを抱けるのか、そのパワーの度合いで判断」したいなあと思ってて。マンガ批評はマンガ批評家じゃないと書けないというのでは、表現が狭い気がして。もっと、自由であってもいい。マンガとして作品の評価は下せても、(これは絵が巧い、構成が巧い、テーマが斬新などの評価)それ以外の「感情」の部分は言い表せられなくて、それが今、一番、私が読みたい文章。そこが大きく間違っていようが、その人にしかわからない部分であろうが、逆にそこに魅力を感じる。批評は正しさだけを推し量るものではないし、物語は正しさを伝えるだけしか意味がないものではない。そう思うのは対象を矮小化しすぎと非難したくなる。なぜ、その言葉が必要なのか。すでに、必要としているじゃないか、という。そして、それを欲している誰かがいるのなら、その作品は無駄ではない。安全な批評なんてないのだ。って、絶対安全批評批判!? でも、あれだって絶対安全なんてないってところから書いているに違いない。ないからこそ、書くんじゃないの。とか、読んでないのに思う。酷い話だ。ごめんなさい。よ、読みます。でも、文芸読めないという劣等感から読めない。マンガならいくらでも読めるのに。ここが私のダメなところ〜。って、話が反れた!

 私の理想はそれがあることで、さらに面白くなる何かだ。それが毒であれ、良薬であれ、ただの気持ちが良いだけの薬であれ、結果に結びついて何かが動くならそこを良いといいたい。濁った水は腐る。絶えず流れる水が好きだ。変わっていく何かが好きだ。それを恐れない勇気を褒め称えたい。世界をどんどん決め事でそれでしかない何かで埋もれさせる不自由さを軽蔑する。そして、それが無駄なあがきでもいい。私は私でそれを選びたい。その自由は誰にも左右されない。