吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

何を視、聴いているのか

http://passage.tea-nifty.com/firedoor/2008/06/post_c78b.html
 九龍ジョーさんが演劇における「視点」について、ポツドールを取り上げながら書かれた秀逸な原稿で読み応えがあった。関心事といえば私もこの「視点」の問題は常に気にして原稿を書くことが多いため、書かれた文章にいちいち膝を打った。最近だとイズミノ君(泉信行)の『漫画をめくる冒険』をはじめとする視点(表現)論が刺激的である。マンガの話だと突き放し、安心するのではなく、もっと広いフレームで「作品論」として捉えたい。人力で作られた「作品」である以上、批評を正しく成立させようとするのであれば、そのまなざしについて、私たちは何故を問うことを忘れてはならない。
 ちなみに九龍さんの雨宮まみさんの文章への評価だが、私もほぼ同意である。以前、コメント欄に書いたことと重複するので、細かくは書かないが、改めて一言付け加えるなら、「その矛盾を愛する」と書いておこう。これ以上でもこれ以下でもない。そこには自分にはない、共感さえもできない「視点」がある。それはとても歓迎すべき発見である。

 話を戻そう。

 「観客」が「読者」がという「受け手」の視点の所在の話でまったく分断される問題ではないと思う。これに加えて私は「創り手」の視点の所在をいつも考えてしまう。これは自分が音楽に対して持っている問題意識を手がかりにして考えることが多いからだろうと自己分析。考えることが多いというか、一度、自分の中で「納得」できるところまで考えつくした「経験」をもとに私はマンガや演劇など「物語」を咀嚼するという癖がついている。音楽は一通りのフレームをテンプレートにしつくしているという確信の上で絶望があるからだ。音だけで「表現」できる新しさに限界を感じているという話は何度も書いている。だから、現在、自分の関心ごとが演劇やマンガなど「物語」もっといえば「言葉」に移行しているのは必然であり、表現ということに取り組む際に唯一の決め事である受け手に対して「誠実」であり続けようとする姿勢を貫くために自分が今、選ぶ唯一の方法である。ここに矛盾は一切ないのだが、理解しづらいかもしれない、とはわかっている。まあ、わかりやすい承認欲求のために何か書いてるわけじゃないので(笑)、わかりにくいのは当然。前にちょくちょく「表現者の表現する動機は承認欲求しかない」という極論だけから私の文章を解釈しようとするプログを読んだので、改めてこんなことを書いたわけだが。実際にはいろいろな感情やロジックが複雑に重なり合って、紡ぎ、一時的に、また、永遠に一つに答えとしてアウトプットされるのが「表現」であって欲しいという理想を追っていますので。理想がないやつには進歩もないよ。

 私が作者至上主義というものに対して、懐疑的であるのはそこに創り手の「狂気」という名の余地がないところだ。そういうものにオモシロさはあるのだろうか?*1オモシロさがない「作品」は果たして、受け手を必要としようとしていないのではないか。作者至上主義、という考え方は受け手を無視し、拒絶する行為に過ぎないのではないか。そこには「発展」という未来がない。あるのは静かな絶望だけだ。完成されたモノがただ、一つだけあればいい。それは崇拝される対象であって、考え、悩み、また新たな糧や種になり得るモノではないのではないか。

 「誠実」さという言葉の中にはある種の厭らしさがある。「誠実」を単に「媚び」と矮小化したときに、悲劇はおこる。「媚び」という態度には、本来、誠実さなどない。誠実である主体が創り手である以上、媚びる相手に合わせる「だけ」であってはならない。それはどちらかといえば「商品」に近い考えである。優れた商品は等価交換でなければならない。ここに「作品」という観念が入るのであれば、正しい等価は、価値は、受け手が見つけなければ成立しない。これが受け手と創り手の理想的な共犯関係であると、私は夢見る。私たちはそこに「商品」を消費したいのか、それとも、「作品」を感受したいのか。の違いがある。

 商品は完成されれば未来など要らない。商品は常に完成に向かわなくてはならない。そして、その完成度を維持することに労力を注ぐことが生産者の誠実さではないか。

 では、作品とはなんなのか。そこに完成はあるのか? 私は完成など幻想であると思う。作者を神にしたい受け手、自分を神にしたい創り手の頭の中だけに完成のイメージはあるだけだ。同じ世界を共有できた神とその世界を信じる者だけに与えられた世界。たったの一つだけしか、与えられない価値。その一つの常識の強度は、その世界の誰かを常に迫害し続けるだろう。共同の幻想の中で咲く花をその輪から一歩、踏み出せば「見難い」。

 たとえるなら、蕾なのかもしれない。
 まだ、発見されることもなく、身を潜める透明さかもしれない。
 それにはまだ、名前がない。

 価値が、等価が、楽しみ方が、決定されたものを「商品」、まだ、曖昧に判断が保留とされている状態を「作品」と呼ぶとすっきりする。
 

 過去に迫害されたから、絶望がまず、あったから、そこから逃げ出して新しさが生まれたという「事実」がある。これも一つの正解である。生まれてしまった存在に否定の言葉は在り得ないのだ。一度、「見難い」とあきらめてしまった花をもう一度、直視してみよう。一度、離れた場所を知って、もう一度、見るのと、一度も知らないで、見るのとでは、違うはずだ。経過/経験することで知る地平というのが、ある。この意識の持ちようがひじょうに大切。

 ずいぶん脱線してしまったが、私の受け手と創り手との考えが「音楽」と真剣に取り組んだ結果得られた啓示と慧眼であるこということは強調したい。ここに私の独自の個性があり、書く動機がある。その一端は大友良英氏の初の著書である『MUSIC』で、アンケート「ミュージシャンはステージで何を聴いているのか」で答えている。6月27日発売。いよいよ出ます『大友良英/MUSICS』 - 大友良英のJAMJAM日記いよいよ出ます『大友良英/MUSICS』 - 大友良英のJAMJAM日記を参照のこと。

 加えてこのことは、私が声から意味を剥奪したこととも通じる。それから先に現在がある理由も機会を作って書いていきたい。

*1:このオモシロさ、とは繰り返すが、楽しさではなく、興味が持てるか、という意味である。念のため。