吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

批評の現在。ゼロアカ道場が佳境に入った!

http://shop.kodansha.jp/bc/kodansha-box/zeroaka/kanmon_03.html

 途中退場したものの前回、見学させていただいたゼロアカ道場。かなり絞られてきました!とか書くと他人事のようですが他人事ではありません! 見学しながら「くそう!なぜ私はここに居ないんだ!」と地団太を踏んだからです。あまりにも悔しかったので、同課題が自分に課せられたらどういう企画をするか?を考えてメモったりしていました。そしたらけっこういい企画だったので余計、悔しかったです。負けず嫌いが過ぎます!

 頭がオカシイといえば講談社BOXといわれるくらい今、異常なテンションで突き進んでいて、根拠もないのに希望的観測に陥ってしまうのですが、いやー意外と未来は明るいかもしれないと、結果発表の自著要約・書評を読んでいて思いました。いやーこれはオモシロそうだ! ゼロアカの効用はそれだけじゃなくって、今、すでに書いている人たちに一種の危機感を煽っているところが素晴らしい。

 ここ数年、すべての分野で停滞と退屈を感じそれでも、「やるんだよ!」と鼓舞し続けていたわけですが、どっかで不毛さを感じつつもやっぱり「やるんだよ!」と言い聞かせながらあたりを見渡しながら「けっきょくそれなのか…」と諦めつつもそれでも、「でも、やるんだよ!」と奮い立たせるしか方法を知らなかったわけですが、今年あたりからかなり周りの状況が変わってきたように思います。実力のある”新しい人”が正しく評価されない世の中なんてなんて絶望的なんでしょう。実力以外が「評価」されるようなコネと愛嬌がないと生きていけない世界なんてなくなればいいのに!死ね!死ね!死ね!死ね!

 でも、絶望は長く続かない。

 そんなことを最近はよく思います。

 批評については「」つきのいわゆる「批評」に関して、私はずっと絶望し続けていて、あまりにも絶望が深いので最近はあえて、”作品”について書いたテキストに批評だという言葉を積極的に使うようになってしまうほどでした。自分がこのあいだ書いたユリイカの「マンガ批評の新展開」にも新しい時代の幕開けを感じました。あの特集の根底には「マンガ批評」だからといって、不感症になるな。すべては地続きのテキストだ!という有機性があったから。

 今年はゼロアカ以外でも批評に注目が集まっています。繰り返しになりますが私が求める批評とは単なる「批判」に集約されないもっと豊かで広がりのあるものです。それは、今まで凝り固まった「批評」という枠組みを大きく踏み外すようなものであってもいい。そもそも批評とはもっと自由なものであった。言葉を本来の正しい意味に戻そう。そんな気分だったのです。

 なので東浩紀さんの批評とは何かとの答えになる一文

「評論」という言葉は、いまとても狭く、つまらない意味で理解されています。また、実際に評論というジャンルも痩せ細っている。しかし、本来はそれにはとても豊かな可能性があるはずなのです。評論には、「こうでなければならない」というスタイルなどありません。書き手が考え、思ったことを、直接にぶつけることができるフリースタイルのエクリチュールが評論なのです。ところが、その自由さがいまの評論では忘れ去られている。

 その自由の感覚をふたたび思い起こさせる、乱暴でかつ実力のある書き手をひとり送り出せれば、ゼロアカ道場は成功です。今回の課題選考で、はじめてその成功への手がかりを掴んだ感じがします。

 にはとても勇気付けられました。

 でも、まだまだ足りない!まだまだ満足なんかしてやらない。私自身、ぜんぜん飽きていない。

 何もおきない平坦な時代だと油断していると、気がつけば世界はがらりと豹変しているかもしれない。その渦中に身をおいて、積極的に翻弄されていたい。そんなふうに思うのだ。