でもどうして努力ってのは 一人にならないとできないんだろう
勉強する、本を読む、音楽を聴く、絵を描く……etc
共有する相手がいないかぎり
すべて孤独の作業だ他人に評価される自分を つくろうとしたら
常に人から 自分をひきはなす必要がありそれは何もできずに おいてゆかれることと
孤立という点に おいて かわりはないある日の休み時間
突然ツンとくるような
絶望を感じたことがあった灰色に見えた 壁、天井
冬の透明すぎる 空気そして肉をなくした 私の身体
あれだけ人間がいるのに すべてが無機質の世界だった
もう限界だった
私はとにかく この世界から 逃げ出したかった
これ以上 一秒の孤独にも耐えられない
大黄菜春子『孝子さんの弁証法的青春』より。
今、時間があればなるべく過去の単行本にもならなかった誰にも知られていないマンガ家の作品を探すようにしているんだけど(何故なら知っている作家の作品はもうすでに誰かが評価していおり、その評価は正しい場合が多いからだ)、ほんとうにかたちにならなかった誰かの1作品が神がかっている時がある。
私の考えだが、誰かと共有できるかどうかわからないが、個性的な声を持つ人間はすべてヴォーカリストになるべきであり、そのヴォーカリストにはかならず生涯で1曲、その声の良さを活かした曲があてがわれる説。というのがある。ヴォーカリストの声はマンガ家にとっての絵と同じで、個性的な絵を描ける人は絵を描く仕事をするのが宿命である、と考える。
それは選べない。宝の持ち腐れ。実は才能によって、人生が限定されているという側面もあるのだけれど、この孤独は理解されづらい。何故なら、「でもあんた宝を持ってるじゃない」と言われるから。自分から勝ち取ったものでもなく、得たものを人は大切にしない。その大切さは常に他者からの視線で気がつくものである。だから他人は必要なのだ。だから人は完璧にはできていないのだ。
話が逸れたが、90年代の復刻ブームでは奇天烈や強烈な個性を違う価値観で面白がったものだが、そうじゃない発掘方法ってまだあるんじゃないか。今なら見つけ出せる自信がある。面白いもの、お金を取る価値のあるものはインターネット。それ以外のものだ。
過小評価を正しい評価に近づける戦い。過去の誰も声をかけることさえも思いつかずに、そのまま消えていってしまった人にもう一度、声をかける。タイムマシーンの完成だ。終わった過去は、間違いは正せないというルールを打ち破りたい。
過大評価や過小評価は誰かが正さなくては公平ではない。何も考えないで受容していると声のでかい人の言葉しか耳に入らない。声がでかいだけの人よりも良い声の声が聴きたいし、自分は良い声をかける人でありたい。
こんにちは、ロジック。
さようなら、パッション。