吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

STUDIO VOICEニ我想フ

 1991年5月 特集 Modern Lovers

 これがはじめて買った「STUDIO VOICE」である。14歳。

 私にとって「STUDIO VOICE」とは「読む」ものではなく、「眺める」ものだった。デザイン重視で組まれていた誌面から文字は逃げ出していた。写真の上に重ねられていた白い文字を追うのは難儀だ。単語を拾うだけで、それがちょうど良かった。テキストは詩のように機能していた。

 しかし、ビジュアルはどうだろう。

 いまだに何処に何が配置されていたか、分かる。

 マッキントッシュ導入によるDTPの革命を上げるわけでもないが、いちばんヒップでクールなビジュアルがそこにあったし、そう、読者に夢を見させた。持っているだけで豊かな気分になれた。そういう雑誌は他にはない。

 雑誌は死んだ。

 と、言うのは簡単である。

 雑誌は殺された。

 と、言うのは被害妄想が過ぎる。

 そもそも、雑誌とは何なんだろう。

 例えば、10代の頃の私がこの世界にいたら、私は一体、何に心をときめかせるのだろうか。たぶん、それは雑誌ではない。インターネットかといえば、違うとも思う。きっと、文化を焦がれるほどの性質にはなってない。もっと即物的なものに惹かれている。

 なんてつまらない世界なんだ。

 と、言うのは簡単である。

 いろんな嘘や誤魔化しの上で成り立って、澄ましていられた時代は終わってしまった。

 だからこそ、だからこそだ。

 私は雑誌に期待している。誌の死を乗り越えて、もし、出合うことができるのなら。目の前のパンを買うのをガマンしてまで、ほしい、所有していたい欲求に駆られる「何か」が、何処かにあると期待しているほうが、ずっといい。読者の声がノイズになって、創り手の精神を蝕む。エンターテーメント「それ以外」の場所は何処にあるのだろう。満足や知った感覚の確認のためにある何かを褒めすぎだ。それは、安定であって前進ではない。少しでも、前進していたいという気持ちは何処に行ってしまったのだろう。その先が、死だろうがなんだろうが歩みを止める恐ろしさに比べたら、マシだ。そんな気分は何処へ置いてきてしまったのだろう。

 方法は無数にあるが、その方法はすべて試されない。

 新しさに価値がない、知ったもの、共有できる感覚にしか価値がない。そもそも価値がないものに価値を見出せない。

 虚無は拡がる。

 そういう気分だなあ。