吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

「武満徹 没後10年、鳴り響く音楽(イメージ)」に寄稿

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/4309740146
 
2006年に河出書房新社から発売された「武満徹 没後10年、鳴り響く音楽(イメージ)」に寄稿した文章です。「ユリイカやくしまるえつこ特集」によって、「声」にまつわる論考がいくつかあったので、いい機会なので公開します(編集者にも確認済み!)。

それでは、以下より、お楽しみください。





声をかけたのは誰か
吉田アミ

 なぜ、『声(ヴォイス)』(1971年)を、ヴォーカリストのためではなく、フルート独奏のために作曲したのだろうか。私は疑問に思った。
 私は現代音楽の批評家ではない。研究家でもない。声を、音を発する者だ。私は声で表現する。ヴォイス・パフォーマーである私がはじめて対面する、武満徹とは何者なのか。

ご存知のとおり『声(ヴォイス)』は武満徹が残した、極めて前衛的な楽曲である。たった一本のフルート。淡々なフルートの音から声、息づかいが漏れ出す。フルートは声を出すのと同じで息を吐いている間は止まない。息が続かず、吹くのを止めれば、沈黙が訪れる、黒い。沈黙の中からまた、おずおずと音が声が言葉が息が現われる、白い。そして、また押し黙る。暗い。押し黙っている間、世界は真っ暗に閉ざされる。孤独。しかし、その沈黙はすぐに破られる。明り。ちらちらと手がかりのない光が希望が立ち現われるが、何かこちらから声をかけようとする間もなく、黒はさらなる漆黒の闇に逃げ込んでしまう。在ったり。無かったり。居たり。居なくなったりが繰り返される。音が白い光なら、その他はすべて黒い闇だ。闇の中に逃げ込む影を時々、照らす小さな白い光が見つける。歩き、進み、立ち止まり、振り返り、躊躇い、それでもまた、歩むのだ。相反する二つ、互いが干渉せず、決して交じり合ったグレーにはならない。だからこそ、その沈黙は重くあり、音の存在は鋭さを増すのだ。

もう一度、問いたい。なぜ、声そのものでなく、フルートの音でなければこの<状態>が再現できなかったのか。そのヒントは声を使った楽曲にあるのかも知れない。ミュージック・コンクレートの手法で作られたヴォーカリズム三部作『A・I 』『木・空・鳥』『クラップ・ヴォーカリズム』を聴いてみよう。
『A・I 』『木・空・鳥』の二作品の声は水島弘と岸田今日子である。メロディがあるわけでなく、タイトルにある「愛」や「木・空・鳥」といった短い単語をさまざまな言い方で発音していたり、加工されたりしている。すぐに、一聴して、どれが女性の声か男性の声なのかすぐに判別がついてしまう。『クラップ・ヴォーカリズム』はどうか。クラップ=打ち付けられた声に意味のなかった。言葉になる前の声。嬌声。怒号。悲鳴。原始的な本能そのものだ。そこには性別はなかった。動物の鳴き声が人間にとってオスメスの区別がつかないのと同じだ。
言葉に意味や感情がこもれば声は誰が発したのかすぐに想像できてしまう。言葉の意味はなく本能的になれば人間ではない鳴き声になってしまう。声を声から解き放つにはどうすればいいのだろうか? いくらもがいても性別や本能が声に付随してきてしまう。メロディになればそこに物語が生まれてしまう。ただ、そこに在る不動の存在としての<声>を知るには身体がじゃまである。ただの空気を突き抜ける<器官>にならなければならないのだ。

 武満徹は存在そのものを在ると証明するだけの<声>が聴きたかったのだ。しかし、同時に人間を<器官>にすることを躊躇ったのではないか。そこにあるのは人を人としてみない態度であるからだ。身体から音のみを突き放すには個人のパーソナルな部分を否定することからはじめなくてはならない。それを演奏者に指示しなかったのではないか。なぜならヴォーカリストの多くはその声にいろいろな情報を与えるのが個性であり、それが他のヴォーカリストとの差異につながる。そもそも声には意味がありすぎるのだ。

武満徹の遺作『エアー』(1996年)もまた、フルートの独奏のための楽曲であった。彼が無くなった翌年、私は『Spiritual voice』をリリースした。その時、私は武満徹を曲は聴いたことがあっても、どういう考えがあって音楽に挑んでいるのかまったく知らなかった。エライ現代音楽家の人だから無縁だと思っていた。無関係だと思っていた。同じ人間ではないような気がしていた。武満徹は語っている。

私が理想とする音楽の聴かれかたは、私の音が鳴って、そのこだまする音が私にかえってくるときに、私はそこに居ない----そういう状態だ。
私はいま、作品にサインをいれることにためらいを感じている。
私はこれから作品を無署名にすべきだろうか…………。

私はそのころ、彼がかつて理想とした聴き方をしていた。歴史認識も理由もなく、ただの音として現代音楽もノイズもテクノもロックもフラットな状態で聴いていた。そこには武満徹の音はあっても彼の姿はなかった。だけど、私は出合ってしまった。いや、もう、とうに出会っていたのだ。音の中で。彼が声をフルートに求めたように私も同じ答えを知っている。しかし、私はそこに留まらなかった。けれど、と言い、私は場を離れ、歩みはじめた。真っ暗な道を。声は感情や性別といった身体に囚われてしまうものという諦めと絶望の中で私は、それでも、ともう一歩を踏み出していた。希望することを止めないのは、かつてその声の中に私は声ではない<音>を見つけ出していたから。その音は持続することはない。どんなにも身体から逃れようとしても、呼吸を止めるわけにはいかないから。

私の理想とする音のかたちは武満徹の『声(ヴォイス)』にあまりにも似ていた。けれど、<器官>になりきれない私という身体はあとから追いかけてくる闇に息を止める寸でとらえられてしまうのです。それでも、ともがくときに、スパークする光がまた、つぎを期待させるのです。