吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

1月18日の感想とかトークの模様をyoutubeにアップしたよ

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 まーというわけで、先日は朗読DUOのライブだったわけですよ。終わってから気を抜いたら体調崩しちゃって、数日、寝込みました。それと、ADHDの薬飲んでるんですけどそのおかげで、日常生活はひじょうにおだやかな日々を過ごして、すこやかーな気分だったんですけど、ライブやってわかったけど、反応速度が落ち、感受性が鈍る。もう、これは目に見えて、ほかの人にはわかんないだろうけど、落ちたんですよ。あと、副作用で鳥肌が立つんですけど、この身体感覚が即興において、著しく反応を鈍らせますね。この1錠400円もする薬でなんでこんな効果があるのか怖いなあと思って、ライブ終わってから2日くらい飲まなかったら悪化したよ!能生には落ち着いてできてよかったね💓(笑)←煽りってます。みたいに言われたけど、ちょっと自分ではもっといけるので、薬の飲み方考えないとライブとかには支障をきたすということが、わかったので、気をつけたいと思いました。あー早く、薬飲まないで済むようになりたい。同じ薬飲んでた人が何も感じなくなるって言ってたけど、このことかと思いました。そういう職業なのでライブ前後は飲まなくてもいいですかと医者に訊いたら飲まなくていい的なことを言われたので、次回はリミッターを外してやりたいと思います。そのあとは、しっかり飲みますよ……。このAKIRAに出てくるカプセルそっくりな、白と青の薬をな。興奮剤か。でも、スケジュール調整したり、なんかやんややらないといけないことが累積してるんですけど、文章書いてると落ち着くので、日記でも書かせてください。落ち着いたら続きやります。ああ、こんなメンヘラ自慢をするような子じゃなかったのに、わたしかわいそう! とか言いながら、ライブとトーク、すごく良かったですよ。榎本櫻湖、恐ろしい子!!! 頭の回転早くて、あれだけ臨機応変にいきなり、できちゃうのはほんとすごいです。ラジオを2台使って、音を出しながら朗読してたのですが、現代音楽とかへんな音楽が好きだと言っているだけあって、センス良かった。ぜんぜん、物怖じしていなかったですね。こちらものびのびとできました。シームレスに音をつなげるように、櫻湖ちゃんが終わった瞬間に大谷能生に読み出してもらうという感じでつなげたんですが、ほら、なんか朗読が終わった後に、挨拶するのって、なんかダサいじゃないですか。モタつくっていうか。とか言っておいて、次は生真面目に挨拶するかもしれないし、それはそのとき考えるけれど、なんとなく、ゲストとわたしたちの音がきちんと混じり合うように、演出はしたいなあと思ってあんな感じになりました。『あしたのきょうだい』から自分の中で流行っているコンクリートを煉瓦で叩くという謎の演奏法があるのですが、今回も粉砕されましたね。もう、わたし、煉瓦でブロックをどのように叩けば破壊できるのか、完全に理解しました。でも、前よりブロックの大きさが小さかったのと、ベルサンは音を吸収するため、カーペットが敷いてあるので、思ったよりも音は凶暴な感じにはならなかったですね。みんなも、煉瓦でブロックたたくと、ストレス解消になっていいからおすすめだよ! あと、何やったかなあ。そうだ、ピアノを1音だけ鳴らすということをやってましたね。これも、『あたしのきょうだい』のときにやったことの焼き直しですが、ちいさな子どもが弾くみたいにポーンポーンって、鳴らすとなんか、記憶を巻き戻してるときのような気分になるので、いいかなっていう。それと今更思い出したが、The Conet Archiveを流しました。これは出所不明の短波ラジオの音の記録なんだけど、スパイとかの暗号になっているとかいないとかよくわからないけど、5時の鐘のように郷愁を誘うのでときどき、聞いてます。


1_01: The Swedish Rhapsody

 

これ、死にたくなるよねー!いい意味で。

 

ほかはASMRの動画を10個くらい開いてもの音として使ったりしました。ある意味、Youtube DJとも呼ぶ。こういう音フェチ文化みたいなのがあるんですよ。音響派の再来か。


Asmr binaural dummy head [5] ear check-up, writing with a pencil, lighting matches

 

朗読自体は初心に返って、丁寧にやろうということで、スタンダードなやりかたでやりました。『サマースプリング』をやったわけですけど、もともとこれ、朗読DUOの一番最初のライブでもやった演目で、能生がこれと、わたしがCDに書いた『蕎麦と薔薇』のテキストを気に入っていて、その二つを初ライブではやったんですよね。今調べたら薔薇蕎麦という薔薇を練り込んだ蕎麦を食べれる店があるらしい。へー。能生はライブのために、『サマースプリング』を読み返して、読むところを抜き出してくれたんだけど、「いい作品だけどカルト小説だよね」「最後にハハとソボが救われないのがね」と言われ、まさかの10年越しのダメ出しをされるというとほほぶり。はじめてやったときは、自分の文章を自分の声で読むということ、しかもこの内容なので、すごく怖かったのを覚えている。そのあとのライブでは水嶋ヒロからはじまって、日本文学史の100年遡るというトチ狂ったアイディアを能生が言い出し、されにそのテキストをucnvがグリッチさせるという初期の朗読DUOの乱暴な企みと文学に呪いをかけ、ぶっ壊そうという悪意が混ざり合ったものになり、自分はなぜ、水嶋ヒロの小説なんてまったく読みたくないのに、読まされているだろう能生は鬼だなと思いましたが、それをやったことで、一つ乗り越えられてけっこう読めるようになったし、読み間違えはぐっと減りましたね。今回『サマースプリング』を読んでみて思ったけど、ほんと、中二病全開だからなんでも漢字にしちゃって、読みにくいったらありゃしないなんですが、もともと、これは誰にも言いたくなかった話なので、音読向きじゃないというのは書き方としては適しているのかもなと、思い直したりしました。しかし、今は音読しやすい文章のほうがいいと思ってますけど。ご存知の通り、わたしと能生は1本の小説を二人で書くという気の狂った作業をして、2年かけて小説を書いたんですけど、どこからも出る予定がないまま、先に舞台化して、音源にしてというふつうとは真逆の発表の仕方をしていて、長編にしすぎて、途中ちょっと設定資料集みたいになってるし、本人が登場するメタ小説でもあるんだけど、たのしすぎて二人とも終わらせられなくて、こんがらがっちゃったんですよね。でも、今年の3月くらいまでに一度、わたしが全部書き直そうと思ってます。登場人物が多すぎて、いまいち、焦点が絞られていなくて、唐突に本人が登場とかするからぶっちゃけ、とっちらかってるんですよ。完成度が低い! って自分の書いたものにツッコミを入れてる場合じゃないんですけど。部分的に読むと面白いんだけど。登場人物は二人に絞って、書き直しますよ。タイトルは変わらず『Red;』のままで、兄との関係が悪化したストレスで、ディスレクシアになった女の子と先生の話で、カセットテープに録音した朗読を読むことで、症状を緩和させていくという話です。まあ、そういうことも時間をかけてやったので、お互いの文章に影響がみられて、文体がけっこう奇妙な感じで融和しているので、それはもうちょっと踏み込んで、グルーヴできればいいなという企みがあるのですが、よっぽど頑張んないと頑張れなさそうなので頑張ります。吉田隆一さんにも『これはカルト小説すぎる』とタロット占いでも、診断されたくらいです。さすがに数年経って、落ち着いてリライトできるだろうというのと、わりとここでこれをしっかりやり直して置くことは必要なことだぞ、直感している。いま、他に出す予定はまったくないのですが、3作構想があって、1作はyoutuberの話でこれはマンガの原作にしたいのと、youtuberのシェアハウス青春モノが書きたいっていうのと、311の頃の話を書こうと思っている。昔の自分はあんまり、感情の出し方がよくわからなくて、悲しいことや辛いことをネタにして、笑ってしまうという病気があったのですが、それはぜんぜん、乗り越えたことにはなってなくて、むしろ、自分の中で行き場のないまま、澱んで、ひどく傷つくので、これは優秀な私設カウンセラーを派遣してでも、思い出をやり直して、自分の中で記憶を変質させ、文章にして、外部化してしまおうという、戦法です。我ながらトチ狂った提案なんですけれど、わりとそのことを夢想していると、気分がいいので、書くことでしか救われないんだな自分はどんだけ闇が深いんだろうと思った次第です。わたしはやっぱり、どこか他人とは違って、ものの見方も感じ方も違いすぎるので、日常生活でふつうな人といると劣等感に苛まれがちなのですが、まわりがもの作っている人ばっかりなので自分の異常性が薄められておりました。だから、ものを作っていない人ともわかりあえる、と思っていたんですが、やっぱり、話が伝わらなかったり、違うことが浮き彫りになって、傷つくということがしょっちゅうあった。やっぱ、心地いい人と噓いつわりもなく、言ってはいけないことなんかひとつもない状態で話せないと疲れるのだ。女子のマウンティングごっことか、陰口とか、大丈夫で頑張ってる自分アピールみたいなものにひどく疲れてしまう。もともと子どもの頃から女子グループが嫌いで独自の友人ネットワークを築き、趣味の多さから男子とも女子とも不良ともいじめられている子とも仲がいいという精神が根付いているので、やっぱ無理なものは無理なんだなあと思う。頑張れている人はその競争の中で頑張り続けていくのだろうけど、それって全人類にとって、あんまりやさしいことではないということなんだけど。社会の物差しではなくて、自分の決めた自分のルールで生きていることを自虐もふまえながら、話しているyoutuberのほうがぜんぜん人間らしくのびのびとしているように見えるのは何故だ。そういうものに疲れている人はきっとわたしだけではないと思うので、弱さややさしさについて、もう少し、向き合って考えて、言葉にしていくべきだな、自分はと思っている。思いつめていると言っても良いのかもしれない。そういうことに気づくと人にやさしくできるようになる。と書きながらぜんぜん、感想ではないことをいつの間にか書いている。これは日記なので誰に謝る必要もない。好きなようにのびのびと書いてもいいのだ。それが日記というものだ。

 誰かに謝らせてももらえない、機会を逃したままの宙ぶらりんな状態は自分を追い詰め、嫌いになっていく。こんなことは早く終わらせなくてはならい。そういう前向きな決心が、今自分にいちばん大切なことなのだ。

 

 爆笑のトークの模様をyoutubeにアップしたのでよろしければごらんくださいー。


吉田アミ・大谷能生・榎本櫻湖トーク@荻窪ベルベットサン

http://www.velvetsun.jp/new-events/2017/1/18/118-x-
文筆家/即興演奏家である男女が、書き言葉を舞台上で引き裂き、揺らめかせようとする試み。

【出演】大谷能生吉田アミ・榎本櫻湖
【開場】19:30
【開演】20:00
【料金】2,500円(1ドリンク付)

榎本櫻湖(えのもと・さくらこ)
詩人。1987年生まれ。2007年より詩を書きはじめ、2011年第49回現代詩手帖賞受賞。著書に2012年『増殖する眼球にまたがって』(思潮社)、2014年『空腹時にアスピリンを飲んではいけない』(七月堂)など。また三軒茶屋にあるイベントスペース四軒茶屋にて、定期的にイベント『サクラコの部屋』開催。これまでに、芥川賞作家の滝口悠生や仲良しの詩人たちが出演。朗読パフォーマンスも精力的に行っている。

※※※
 それぞれが即興演奏家パフォーマーとして、そして同時に批評/小説/エッセイの書き手として、音楽と文学の領域を横断しながら独自の活動を続けてきた吉田アミ大谷能生。彼女/彼は二〇一〇年から<朗読DUO>として、笙野頼子夢野久作ラフカディオ・ハーンらの小説を取り上げ、即興演奏のステージ上でそれらの言葉を揺らめかせ、引き裂くことで、声と文字と演奏とのあいだに新たな関係を見出す試みをおこない続けてきました。

 近代小説の前提である「黙読」というシステムによって書かれた言葉を、それ以前の共同体的な読みの状態に戻ることなく――つまり、いわゆる「朗読」のやり方ではなく――、90年代後半から試みられてきた(ハードコアに個人主義的な)日本のあたらしい即興演奏のマナーと倫理とに接続することによって、まったくあたらしく響かせることが出来ないだろうか? このような無謀とも言えるアイディアから、<朗読DUO>は、はじめられました。

 吉田アミの<ハウリング・ヴォイス>は、そもそも声の言語的使用・意味の伝達をまったく排除するところから形作られたものであり、大谷の楽器であるサックスは通常発話と同時に演奏されることはありません。胸と息と喉と声帯を使用しながら、その機能を言葉を伝えることとはまったく異なった状態に育て上げてきた即興演奏者が、その回路を通して、あるいは放棄して、ひとつの言葉を同時に読む。その言葉は、男性の声と女性の声のあいだで宙に釣られ、書き言葉がもともと持っていた「語り手の不明」さを明らかに示しながら、ひとつのものが同時に複数である経験をわたしたちに示してくれます。これまで清澄白河SNAC、浅草橋パラボリカ・ビス、アサヒ・アートスクエア、西麻布スーパーデラックスなどで試みられてきた彼女/彼らのステージは、現代文学/音楽の極端なオルタナティヴとして高く評価されてきました。

 2015年にはキッドアイラックホールにて、舞台作品『Re;D』を上演。同作は(Googleドライブの共有機能を駆使して)二年間にわたって書き継がれてきた長編小説『Re;D』(未発表)を元テキストとし、ダンサー/振付家の岩渕貞太、ファッションデザイナーの有本ゆみこ(SINA SUIEN)、そして映像作家の斉藤洋平(rokapenis/VEJ)との共に作られました。チラシのデザインには戸塚康雄(nu)、冒頭の朗読は危口統之(悪魔のしるし主宰)が担当し、話題となりました。その後、2016年は1年間お休みをいただき、今回より再始動となります。記念すべき第1回目となる1月18日にはゲストとして、詩人の榎本櫻湖さんを招き、ライブと言葉と音楽について、また声と性について、トークを行います。今回、朗読DUOのテキストは初心に戻り、能生たっての希望で自著の『サマースプリング』になりました。今年発売から10年という節目の時。ぜひ、お越しください!

 

 

サマースプリング [文化系女子叢書1]

サマースプリング [文化系女子叢書1]

 

 

 

レビューが公開されました

「ゾンビはそこにいるか ーある喫茶店に浮かぶ、あらかじめ用意された気配を巡ってー」城 李門

http://music-after-tomorrow.com/review.html

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2016年12月10日に行われた安野太郎さん企画のイベント「MusicAfterTomorrow 2nd session」のレビューを「文鯨」編集長の城李門君が書いてくれました。「文鯨」の2号にはこのとき初上演された吉田アミ初作曲作品「voices」が掲載される予定です。よろしくお願いします!

ADHDを疑われている話

 とにかくショックなことが多かったため、精神的に不安定になり、いわゆるSF(すごく不安定)状態がやってきて、そのせいで、瑣末なこともできなくなっていた。何かを始めようとすると始めるまでにものすごく時間がかかり、効率が悪い。立ち直りが悪すぎる。抜本的な解決策を探さないとマズイと思い、この、解決策を探さないとという能動的な態度になれたのは、自分を肯定してくれた人がいたからだ。ぐるぐるぐるぐる頭の中で、パソコンの処理落ちの時みたく、カーソルが回っていた。優しかったわベイちゃん。という禁断ボーイズのいっくんの声が頭の中で再生される。と、いうわけで、もうこれは専門家に頼った方がいいだろうと、友達に迷惑かけるのとか止めたいなーとか思って、人生、2度目の精神科に行ってきた。はじめ、総合失調症とか、躁鬱病とかだろうなあと思っていたのだが、どうもそうではないらしく、先生も食い気味で、ADHDだと言ってきた。いい病院であった。というのも、2011年にはじめて、メンタルクリニックに行った時は、ほとんど話も聞いてもらえず、どっさり薬だけ渡されて、恐怖におののいたのであった。おー精神病ではないのかーと思ったが、これも薬で改善される症状らしい。多くの天才が陥る症状であり、クリエイティブな職の人はみんなこの症状を持っているのだという。そう思って、いろいろと自分のこれまでの行動について、ノートにまとめてみると、思い当たる節しかない。それでいて、自分の周りのミュージシャンとか、なんかやってる人って、全員、そうだよ! って思ってしまった。周りがそうだから自分が異常だって、気がつかなかった。それもどうなのよだし、問題は、それまで、この障害があったとしても、うまく、社会生活ができるように自分なりの努力で、なんとかやっていけていたのだが、それが破綻したのはストレスによるものだった。パニック症状に至ったわけだ。自分は知らず知らず、より良い方法を既に決めていて、迷惑をかけないように、注意深く暮らそうとしていた。それができなくなったのは、いっぱいいっぱいになっていたからだ。コップの中の水がこぼれ落ちるように、私は自分の弱音を信頼できると思った人に吐露した。吐き出すようにというのが的確だ。その誰もが、拒絶せず、出会ったばかりの人も、快く受け止めてくれた。なんという感謝だろう。ここ数ヶ月でものすごく仲良くなったりした。で、調べたところ、文章を書くのはとてもいいらしい。そして、自分は、文章を書くのが好きだということだ。いいじゃないか。書いていいんだ。でも、それは誰かに向けて書かれなくてはならない。誰かに届くものだと、信じていなければ意味がないとか思ってしまう。ADHDの処方箋にも、自分の状態を誰かに話すのが症状を軽減させるとアドバイスがあった。救われる気持ちになったのは、自分の異常性が親の遺伝ではないか、と疑っていたからだ。よし、これで親を怨まなくても良い。恨むという気持ちは自分の中になかったけれども、選択肢として、一つ消えたのは、状況を好転させる。

 だから、自分がブログをアホみたいに書いていたのは悲鳴のようなもので、もう誰か助けてよ、と言いいながら、自分を保とうとしていた証なんだと気がついてしまった。だとすれば、私はもっと、もっと、書いた方がいい系の人だし、書かないといろいろまずい人間=死なので、やっぱりいろいろ気楽に書きたい。音楽も好きだし、ギターを出鱈目にでも、弾いている時とか、心が清らかになるので、やはり好きだと思ったことをやった方がいい。っていうか、それしかできない。

 たった一歩が踏み出せず、ぐるぐるしてしまう時が多くなって、そのぐるぐるが、とても自分を責めるので、いつもならできることができなくなることが、とっても怖くなる。ぐるぐるぐるぐる。この渦巻きがずっと襲ってくる。人には大丈夫だと言えるくせに、自分には大丈夫だって言えない。誰か、他人に言ってもらうしか、解決できない。

 カクテルパーティー効果とか言われるあれの反対で、音が全てフラットに聞こえ、雑音の多い場所にいるととても疲れること、絶対に間違えないでくださいね、と念をおされると、その期待に応えるように、失敗してしまうこと、一度、興味を示したものに執着して、調べつくそうとする態度、いっぺんにいろいろな指示をされると混乱して、すぐに答えが出せなくなること、集中と気まぐれが同時にあって、要点がはっきりしないこと、衝動と沈黙が同時に訪れること、飽きっぽいこと、待つのが苦手なこと、退屈に慣れないこと。それは全部、自分が未熟で、幼稚で、情けない、努力の足りなさだと思っていた。ドーパミンがDBDB出ていないせいだと言われると、なんとなく、納得してはしてしまう。でも、これって、即興演奏においては、めちゃくちゃ、有利というか、うまくできる性質だと思います。正しく、治療するのが、私にとって良いことなのかどうなのか、とか考え込んでしまって、またぐるぐるが来る。いやいや、障害は個性だとして、割り切って、でも、それによって、自分を嫌いになったりするような気持ちになって、自罰的な重い心が発動して、動けなくなるくらいならば、治療は必要だし、治したっていいんだよ。ぐるぐるを抱えながら、その状態を状態化して、いることなんてないんだよ。違う違う。自分を他人だと思ってみよう。自分が他人なら、優しくできるのに、何で自分は自分を責めたがるんだろうか。性癖? だったら気持ち良くなりたいけど、全然、気持ち良く慣れない。むしろ、自分が嫌になりすぎる。ぐるぐる、ぐるぐるが来る。猫のぐるぐるはかわいいのだが。

 まあ、思わくば、拒絶や透明化は勘弁してほしい。私はここにいるのだし、ここにいてもいいと認めてもらいたい。誰に? と聞けばそれはあなただという即答。知らないまま、好きだと思う気持ち。わからないまま、わかってくれるという返信。それは安心であって、一番不安から遠い、大丈夫の繰り返しの音だ。

口火

 パチン。と二つ折りの携帯を閉じた。iPhoneにしようかな。心が動く。もう、今日は携帯を開かない。眠い。コンビニで竹鶴を買う。飲みながら家に帰ろう。歩くのは好きだ。もうどうせ今日はメールの返事などないのだろう。

 ぼくは星座の名前を知らないけれど空を見上げることはできる。酔っぱらって歩きながら誰にも出会わない夜道を行けば、足音はリズムになり、ぼくはその音に合わせて歌うことができる。BPMは○○○。メトロノームみたいに規律正しく。いつも歌っている歌は同じだ。ipodに入ってない古い曲。レコードでしか持っていない。アナログをデジタルにする手間を考えると気が遠くなる。名前は忘れた。有名な曲ではない。でも、ぼくは気に入っている。歌いだしはこうだ。

人間、酒だけでは太りません。酒と一緒に食べるのがいけないのです。酒だけを浴びるように飲みつづければ確実に食欲をなくし、やせます。経験済みです。酒はビールよりも焼酎がいいでしょう。持続的に飲みつづけるには焼酎がいちばんなのです。だから今日も呑みます。4リットルの焼酎のペットボトルが片手で持てるくらい軽くなりました。1週間で。アル中になるんじゃないかなあ。放っておくと。確実に肝臓は悪くなっている気がする。でも、どうでもいい。どうだっていい。どうにでもなれという気分になっている。

全然食欲がない。あいつが出て行ってからというもの、台所に立つ気になれないから、料理を作らなかったら一気に食べれなくなった。一人でごはんを食べるのがつらい。一度、ペンネアラビアータを作ったが、つい、二人分作ってしまい、余らせた。翌日食べたふにゃふにゃになったペンネはあいつのペニスを思い出させて腹は膨れたが腹は立った。頭にきたので皿を一枚割った。この二つの対になった皿やコップをどうすればいいのだろう。困ってメールしたら、10日も経って来た返信が「要らないものは、捨ててください」だった。冷蔵庫にあった卵もトマトもネギもほうれんそうもダメになった。卵は見た目が変わってなかったので1個、目玉焼きにして食べたらそのあとおなかを壊し、もともとなかった食欲をさらに減退させた。トマトは白くカビて赤い水になった。ネギはひからびてかちこちになった。ほうれんそうはしなびて枯れた。何もかも腐った。まるで自分の姿を見ているようである。家賃の振込の催促。今後どうするのか何度も尋ねるメールを出す。もちろん返信はない。だんだんと不安になりヒステリックに文章を連ねる。連ねているほうがつらい。携帯、PC、Twitter経由で「連絡ください。ほんとにつらいです。どうするんですか」と同じ文面を送っても返事はない。インターネットで世界中に発信するようなものじゃないけど、しょうがないので@で「Mしました」と飛ばしたら、3分後に返ってきたメールが「来月に千葉に引っ越すので家を引き払います」でした。「どういうこと」「きいてない」「これからどうすれば」「もうやだ」「説明して」「理由は」「なんで」「もう死にたい」と書いて返信するとまた、返信は返ってこなくなった。なんなんだ。携帯に電話しても、もちろんでない。留守電に入れてもでない。あいつの実家に電話をかけても居ないと言われる。Faxもした。実家に。もうなんかストーカーみたいじゃないか。もちろん返事はない。女のとこにいるのだろう。たぶん、キチガイ女だと言われているんだろうな。気を狂わせたのは誰か。おまえたち二人だ。
 ぐちゃぐちゃになった部屋に戻るのもテレビを観るのも嫌で、今まで入ったことのない居酒屋に行った。電車が止まっていたから店は満員で。まだ18時。外は明るかった。居酒屋ではラジオが流れていた。現実味はなかった。「まるで世界が終わったみたい」そんなありきたりなフレーズがしっくりきた。まだ原発事故は明らかになってなかったけれど。

 その数週間前からわたしは何故か家でごはんをちゃんと作って、二人で食べることに執着していた。理由はわからなかった。だから、家は食べ物にあふれていた。1週間分のストックはあった。切り干し大根煮、ひじき煮、きんぴらごぼう、きゃべつ、トマト、ねぎ、茄子、干し椎茸、にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、にんにく、卵12個、ビール、麦茶とかまあ、ひととおり。思い出したらきりがない。今はその全てが失われている。あるのは4リットル入りの焼酎と買い置きの水だけだ。人は食べなくても意外と生きてられる。脂肪は燃焼していく。わたしはどんどん痩せていく。11月の今、9キロ痩せた。あいつが出て行ってからすでに4ヶ月が経とうとしている。4ヶ月!!!で!!!9キロ!!!何このダイエット。本に書いたら売れるんじゃない? 15年つきあった腐れ縁の男を若い女に寝取られダイエット!!!不健康すぎて却下。自虐もつまらん。何もおもしろくない。酒で胃が焼ける。ムカムカする。吐く。出てくるのは焼酎。永久機関のように吐いては呑むってのはどうだろう。自家中毒。胃液とミックスされたカクテル。呑めるか!ああ、でも、これを呑みたいって言われたら恋に落ちるかもね。わたしはこれから先、誰かをすごく好きになったりできるのかな。
それは高速のオープンカーに乗り、すれ違いざまの死に神に首を屠られるという不条理な夢だったのだが、映像がこれでもかという程、馬鹿みたいにキレイだった。しかも、その同じフィルムがループしていて、何度も何度も繰り返し見せられるのだ。5、6回繰り返したところで流石に目が覚めた。奇妙で今までに観たこともない美しい悪夢だった。夢の中とはいえあの空の色は現実では見ることできない色だ。オープンカーの赤と空の青が対照的で。あいつと行ったヘルシンキの風景とかを、わたしの脳が解釈してもっと素敵にしたんだろう。わたしの脳はわりといい仕事をしている、と思う。

 で、現在。

 先日、半日ほど目が痛かったので鏡でみたら見事に睫が刺さっていた。睫が刺さるという現象が半年に一回は起きる。そしてまんまとめんぼになった。めんぼというのは結膜炎のことだがその症状をめんぼと呼んでいるのはうちの母親以外訊いたためしがない。ブレードランナーのような変な器具で目を覗き込まれたり、目玉に空気を吹き付けられたり理不尽な目にあってきた。びくびくびくびくしているのでそのたびに医者に「だいじょうぶですよ~」と子供をなだめすかすように言われる。

 眼科とは恐ろしい場所だ……。

 そして、さらに。

 血尿が出た。わわわわわ。なんじゃこりゃー。というようにルビー色のおしっこが。きれい。って、うっとりしている場合でもなく。確かに背中が痛い。尿路結石だろうか。微熱もある。いや、腎盂炎? 前になった。確かに似ているがあのときでたおしっこはコーラ色だった。灰色のコカコーラ? それは小説のタイトルである。うーん。確かに倦怠感。うーん。たしかに頻尿っぽい。ああ、そうだ。これは膀胱炎だ。ただの。ほら、ネットで検索したら発言小町に書いてある。大丈夫。大丈夫。入院なんてしなくていいよ。ビール飲めば治る。東京タワーはどっちだろう。スカイツリーはどっちだろう。


 飲みすぎた。電車の中で吐いた。そもそもここ3ヶ月、まともに食べてないから吐いたといってもストレートで飲んだテキーラがそのまま出てきただけだけど。アルコール度数の強い酒はは吐くときにもう一度、酔う気がする。ショットで何杯? 飲んだ記憶も曖昧だ。何も食べずに飲むと胃に負担がかかるのはわかってるけれど。飲みすぎてしまった。何処で? 胃がむかむかする。寝て起きたらここは何処だ。知らない。ずいぶん遠くに来たものだ。降りたことのない駅だ。タクシーはあるか。金がない。クレジットカードで。それかコンビニ。家まで何駅だ。わからない。ここは何処だ。寒い。当たり前か。2週間前まではまだ暑かったのに。いつ、蝉は死んだのだ。秋か。台風も2回来たし。こっちでいいんだっけ。改札は。世界が揺れてる。地震か。俺の世界だけ揺れている。左目の奥が痛い。頭痛か。サーチライト。滲んでいる。マンガ喫茶があったらそこで朝まで時間を潰すか。上りの電車は終電だ。当たり前か。駅員がロープ張ってる。こっちでいいのかな。出口。何処で間違ってしまったんだろう。工事中だ。こっちか。こっちでいいのか。こっちでいいや。ここから出よう。外に出よう。何もない。暗い。何もない。最寄の駅からたった5駅で。こんなにも田舎なのか。コンビニあるかな。あった。線路沿い。あれか。セブンイレブンか。金下ろそうか。財布の中はいくらだ。2千円。うーん。どうしよう。トイレ借りるか。借りた。すっきりした。液キャべ飲もう。竹鶴。これ、あんまり売ってなくなったよな。うまいのに。買おう。飲もう。歩こう。そうだ。歩こう。決めた。コンビニの店員に道を訊く。この前の道をずっとまっすぐ行けばいい。方角は合っている。液キャべ飲む。缶を開ける。飲む。歩く。暗い。つげ義春のマンガみたい。ちょっきんちょっきん金太郎。あれ? あの送電線。知っている。変電所に行くはずだ。家の近くの。どうしよう。タクシー? タクシーは長い行列。やっぱり歩こう。道はわかっている。歩こう。歩けば2時間くらいで家に着くだろう。日頃、運動不足だし。もし、無理なら途中でタクシーを拾えばいい。疲れたらそこでタクシーだ。そこまでは足でドライブ。通称・足ドラだ。ガソリンはアルコールで。
 完全に道に迷った。たぶん、方角はあってるはずだけど。送電線沿いに歩いていけばいいと思って歩いていたら住宅街で袋小路。行き止どまり。行ったりきたりしてるうちに方向がよくわからなくなった。いつの間にか送電線が見つからない。とにかく大きな道に出なくては。人に道を訊きたくても誰ともすれ違わない。駅から誰ともすれ違わない。と、思ったら向こうから人が来た。向こう側の道路だ。車を横切って聞きに行くべきか。なんだろう。何か持っている。タイヤだ。タイヤを担いでる。右手にスパナのようなものを持ってる。赤いタンクトップを着てる。短パンが短すぎないか。なんか怖い。声をかけられない。すれ違う。もういい。とりあえずこの道沿いに行こう。大きな公園だ。この公園知ってる。自転車で来たことがある。野川公園だ。自転車で30分くらいだったはず。そうか。もうけっこう近くまで来ていたのか。でも、送電線は何処へ行ってしまったんだろう。月の明かりがきれいだ。車がすごい速さで横切っていく。サーチライト。切ない。缶の中の酒はもうぬるくなって炭酸も消えていて。でも、それを無理に飲み込んだら胃が突然、受付を拒否。激しい吐き気。数歩歩きながら吐き気。今にも嘔吐しそうになって。もう、ずっと吐き気が止まらない。吐き気がするから何も食べれない。固形物を受け付けない。ずっとトマトジュースコーンポタージュスープとヴィダーインゼリーとポカリスエットと水を飲んでる。2ヶ月で8キロ痩せた。空になった缶は鞄の中に入れた。気を抜くと涙が出てくる。彼女は今日、帰ってこない。そう、ぼくに宣言した。誰もいない部屋に帰るのは嫌だ。

 完全防冷でアスファルトの蜃気楼の目玉焼きが焼けそうな上を歩く姿が目に焼き付いています。

 何かに困った時、わたしはいつも一人で歩き出しているのだな。

 不意に空を見上げたら、雲の暗さの青くて寒い感じの色で一等星がぽつっと光っていた。いつのまにやらこんなに暗い。季節は移り変わっている。なんだ、もう冬なのか、と。そして突然、体が冷えて身震いして、がたがた震えはじめたが構わず夜を歩く。人形町の甘酒横丁で甘酒が飲みたくなるくらい寒いよ今日は。でもあそこまで歩くと手がかじかんで凍えてしまうのでやめます。
 もう少し歩こう。

 かならずビールを飲んでいるので別にあの時にビールをこぼしたのは意図でもなんでもない。そこは笑うところじゃない。それはまったくおもしろくない。過失と失笑の組み合わせでしかない。それはやっぱりおもしろくない。ちっともさっぱりおもしろくない。そもそも何もおもしろいことなんて退屈の中にはないのだ。だから重苦しいほど私は退屈していたのだ。そして私はその退屈を楽しんでいたに違いない。退屈の真っ只中にいて、気がつかなかっただけで。

 まだまだ歩こう。

 ゆるやかな病なら患いたいなあ。風邪とか。死に至らない優しい病。病のときのあの感じは病のときにしか味わえない。病のときに食べる桃缶、レディボーデンのアイスクリーム、氷のうの冷たさ、おかゆのあたたかさ、おもしろいほどでる汗。そういうものが恋しくなる。こないだ散々だったくせにもうすぐに忘れて恋しくなる。今日はとても寒い。風邪に恋などしてはいけない。
 どんどん歩く。
 歩道橋を歩いているとき、今まで自分が他人に吐いた一番、ひどい言葉ってなんだろうとか漠然と考えた。それ以上の癒しの言葉をわたしは投げかけることが、できるのだろうか。それ以上の言葉を、与えてもらえるのだろうか。奪われてしまうのだろうか。取り戻せるのだろうか。どちらでもない。どちらでもいい。どちらもいい。そういことを考えていた。

 何度目かの面倒な乗り換えを終え、あと数駅。

 駅員に食い下がり、タクシー代をよこせと言う連中を尻目に、私は歩くことを選ぶしか余地はない。

 しかし、わかるか、あの道のりを徒歩しなくてはならぬ困難さをあなた方は想像だに出来まいってそもそもあなたとは誰か。

 何故に足を棒のようにして立ち尽くし電車に乗った末に待ち受ける試練がこれというのは余りに厳しすぎないか?なにせ、家まで徒歩で1時間はあるのだから。暗い夜道で絡まれたことも幾度と無くある私はこの帰宅の道が怖い。また、うちの近くの場所ではべとべとさんにも遭っているのだ恐怖は一塩だ。しかもたった一人きり。一瞬、会社へ戻ろうかと思った。緑の電話で会社にかけるが最早、時既に遅し、午前1時をまわってる。だれも居ない部屋に鳴り響いているだけであろうベルを10回程で止め、仕方なしに歩く事にした。もしかしてタクシー代が出るかも知れないと思ったが、出なかった時の痛手を考えると歩く方が遥かに気が楽だった。道路に出ると、タクシーが渋滞していたので思いの外明るかったせいもあり、歩く事に踏み出せたのだ。一度、夜中に3時間歩いた事を考えればなあにあっと言う間に違いない。ただ、それが一人きりというのがどうにもひっかかるのだが、人間一人で生まれて一人で死に行くものである。孤独を怖がっていちゃあなにもはじまらないのだ。

 さて、こうして午前3時にやっと家路に着いた。かくも険しい道のりでやっとの事で得られた安堵は大きい。そして、この稿を今、まさに終えようとしているのだが、文章が直前まで読んでいたラブクラフトの影響が顕著なことは最後に記しておこう。 あでゅー。

 そして、突然の多福感(いいじゃないか。落ち込む訳じゃないのだから)に襲われたりしてかなり精神のバランスがあやういが、いろいろと予定があるのでそんな風にしていてはまずい。しっかりしなくちゃなあと思う。

 咽が乾いたので近くの自販機まで行った。コンビニも近いけどコンビニの爛々とした光の中に自分が照らし出されるのがいやなので、自販機にしたのだ。ここでジュースを買うなんてめったにない。そしてものすごくみすぼらしい私は闇の中でこっそり買う。それが自分に身分相応だ。
アパートの脇の道に蝸牛が大量にひからびていたのはもう随分昔のことなのか、と悲しく思う。 しらないうちに月日が流れていた。何を感じながらここ数カ月、自分は生きていたんだろうと重く、思い、虚しくなった。

 きびすを返して戻った部屋は暖かかった。そしてまた、多幸感に支配される。些細な事でいちいちと。

元旦と一旦

 ※はじめに。noteで書いていたシリーズですが、noteだとyoutubeとか貼れないのでこっちに書くことにします。そんなに書いてないけど、以前の文章など読みたい方はnote.mu をご覧ください。  

 

12月24日の0時には代官山に居た。渋谷からの東横線の電車の中で見知った顔に遭遇。彼もまた同じ場所を目指していた。渋谷から代官山までの短い時間、他愛のないことや近況を話した。 extrecordings.blogspot.jp  代官山の駅で、友人と落ち合い、蔦屋のファミリーマートで液キャベを買い、本屋で『新潮』の1月号を購入。こんな夜中にもかかわらず賑わっている。ポケモンでもいるのか。タクシーを呼ぶだけの電話機がレジの横に置いてあるし。これって、金持ちが夜中に突然、こち亀100巻とか読みたくなった時にふらりと現れて、大人買いして、タクシーで家に帰るためにあるのか。確かそんなエッセイを昔、読んだことがあった気がした。途中で、『RAWLIFE』という名の服屋があり、看板を撮影。Instagramに投稿しようとしたが、保存に失敗して諦めた。  RAWLIFEと言えば2004年から2006年にかけて開催されていた音楽のフェスの名だが、今、検索したらこの服屋の情報ばかりになっていた。液キャベを飲み、クリスマスで浮かれる代官山の街をdisり、いや、他人から見ればわたしたちもまた、浮かれた人間のように見えるよとか言いながら代官山UNITに到着。  IDチェックが厳しいから、必ず顔写真付きの身分証明書を持ってくるようにレーベルオーナーの永田一直さんから注意喚起を受けていたが、家には期限切れのパスポートしか顔写真入りのものがなかった。マイナンバーカードを作らなくてはいけないのはわかっているのだが、めんどくさいのと数字で管理されるというのが生理的に気持ち悪い感じがやはり否めないのでまだ作っていなかった。パスポートを見せると案の定、強面の180cmくらいある巨漢のセキュリティに嫌味を言われ、健康保険証の提出を求められる。次からは必ず、期限の切れていない証明書を持ってきてくださいと念を押される。風営法とかで大変なんだろうなあ、やっぱりマイナンバーカード作らなきゃなあとか、セキュリティは外部委託していることも多いから、音楽が好きとかじゃないんだよとか、なんかそんなようなことを人と話した。受付を済ませ、会場に入るがほぼほぼ10年くらいぶりのクラブでオールナイトのイベント。なんだか勝手がわからなくなっているし、今日は朝から早く起きて、youtubeを狂ったように見ながら部屋の掃除や洗濯などをし、昼からはたまごボーロを丸める会に参加して、たまごボーロを丸めたりしていて忙しかった。たまごボーロは片栗粉と卵と牛乳と砂糖で生地を作るのだが、指の腹を使ってうまく丸めないと指先で脆くも崩れる。不恰好な出来損ないのボーロたち。これではプロのたまごボーラーにはなれないよと笑い、でも膨らめばそれなりの形になるから大丈夫ですとか言いながら丸めていた。関東たまごボーロ丸め会もしくは、たまごボーロ丸め隊。主催と他の2人の参加者たちは3時間くらい淡々と丸めていた。背中を丸めながら必死で丸める様子を猫とわたしがチラチラと見ていた。たまごボーロを丸めるのに適した音楽はありますか? と質問されたので、Manuel Göttschingの「E2-E4」をおすすめしておいた。スティーブ・ライヒでも良かったかもしれない。家人が作ったクリスマスケーキを食べた後、わたしは中座して、近くの四軒茶屋というところで開催されるイベントに行った。それは詩人の榎本櫻湖さんの主催するイベントで、落語が聞けますよとゲストの滝口悠生さんに誘われて、そういえば落語ってちゃんと聞いたことがないし、前回の朗読とトークも面白かったので行ってみようと思い、何よりも、櫻湖ちゃんがyoutubeをかなり見ていて、禁断ボーイズのメサイヤ様の引退について、お互い、心を痛めていたので、その話がしたかったのと、朗読のイベントをそろそろ復活させたいという気持ちがあったので、そのスカウトと、悠生くんの小説にサインしてもらおうということだった。小説は昨日、届いたばかりでまだ3ページしか読んでいなかったが、最近の小説や文章は数行読むだけで嫌気がさしてしまうのと、書かれた言葉選びにいちいちイライラしてしまうというわたしが珍しく読めると思ったのとタイトルが『死んでいない者』で、まあ本当に今年は人がたくさん死んだし、年始一発目のイベントが、室伏鴻さんの追悼イベントで父の死を楽屋で聞き、意識していなかったがテーマに取り上げた武満徹の命日でもあった。楽屋で偽兄でこの時の音楽をわたしと共に担当した吉田隆一さんが、異変に気付き、一番最初に声をかけてくれたことをよく覚えている。2016年は年始から死に取り憑かれかれていたのだった。そういえば、アーノルドシェーンベルクの『月に憑かれて』は何でもあると言われているぼくらのインターネッツにアップされているのだろうかと調べたが、初音ミクが歌っているものしかなかった。この時の公演で流した音源は永田さんにマスタリングしてもらったものだった。2月に作った演劇作品の『あしたのきょうだい』も祖母の死から、山に行き、山を降りて家族以外の人と暮らすことになった、先ほどたまごボーロ会の首謀者の張 佑寿ちゃんだったりする。今まで生きていた中で死という言葉をこれほど吐いた年はなかった気がする。  ExTレーベル10周年ということで10年前に想いを馳せる。その頃、死というイメージはまったく自分の中になかったし、周りで死んでしまう人はごく稀で、 月刊死人みたいな軽いノリで、死が連載されるなどということはなかった。3ヶ月に1度とかひどい時は2ヶ月続けてとか、そんな風に人は死ぬ。ギャグマンガ並みの死の軽やかさ。10年前とは違い、SNSで追悼文が無数にアップされるから、日常に戻りたいのに、それらを貪るように読んでしまう自分がいて、勝手に傷ついて、勝手に人を許せなくなったり、諦めたりした。こんな精神衛生上良くなさそうな、行動に駆られるので、故人らとはまるで関係のない世界に行きたくて、youtubeを再生し続けていた。動画を見ていれば、人とつながるようなツールと物理的な距離を保つことができる。だって、再生している間はSNSを見なくて済むからね。でも、こうやって、クラブに来てしまえば、もっと強制的にSNSなんて見なくても済むのだった。何もかも忘れて没頭してしまう時間は、何かを諦めたり、許したりするためには一番必要な唯一の手段で、誰かと繋がりすぎて身動きができなくなるようなことを避けさせてくれるのがクラブなのかもしれない。とか思っていた。しかし、ビールが700円とか高すぎやしませんか。死屍累々。  イベントは3フロアをぶち抜きで、何処へでも行き来できるようになっていた。一番最初の階は和ものの日本語の言葉の階で、わたしは獅子舞に頭を噛まれたし、ビイドロのライブを観れたので、正直、うれしかった。メインフロアでは、相変わらず、素敵なものを煮詰めたみたいな音楽があって、わたしはチラチラと見初めてしまう。好きな人のことを少し考える。ビールだけ飲む。わからない場所から不意にわいたように声が聞こえる。わっと聞こえて、聞こえなくなる。  その数日後、タクシーに乗って、全てを忘れる、今年を終わらせようと思ったのに実際は全然、終わらなくて、涙だけで終わって、みっともない自分がいて、わけがわからないまま、整理できなくて、ごめんなさいと謝りたかっただけなのに、謝ることもできないまま、今年が終わったので、来年というか、もう、今年は、歌を歌うしかないなあとか思ったりして、わからないままわかるつもりもないのか、わからないけれども、まあ、結構大変な1年でした。 10年後もわたしたちは生きているのだろうか。あの人が死んだらわたしは壊れてしまわないだろうか。そのあの人とはあなたであり、わたしのことでもある。  来年は死よりも詩に取り憑かれたい。