吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

ネットで公開する日記って

自分や他人に対する私信なのかもなー漠然と思う。
人のサイト見ても聞いても知っても自分が興味ないのはトコトン興味がないし、どうでもいいことはどうでもいい。ちょっとオモシロイと思ってもすぐに忘れる。ほんとうに簡単にすぐに忘れる。でも、自分が気になったものとかはすごく気になる。それは自分の問題でもあるから気にするわけなんだよなーとか。

そうそう、わけわかんなくなったんで、ネットをさかんにはじめる前(俺ニュースでことたりていたころの)の自分のインタビューを今、読んでいたらとっても良いことを言ってました。自分が。
なんで引用するよ!

■etc.(2003年5月号)

(astro twinというユニットについて)
あまり完成されていないものに向かう、基本的にゴミみたいな感じにしようというのがあるので(笑)。より汚い音を出すとか、相手の音も聴いて居るんですけど、かなり聴いていないですよ。なんか合わせてないんですよね。でもたまに「合ってたね」とか言われたりする。自分が出している音だと思っていたら、実は相手が出していたり、音自体が融合している感じです。
(外的なノイズが聴こえていてもいい/マイクで拾った音は全部、自分の音である)ただ、自分というフィルターを通して変換しているから違うんでしょうね。
ベクトルは逆でも自分の中で外の音と混じっていくというのは、自分の音を確認することと同じような気がする。それで今まであやふやだったものが鮮明になったり。いつかは飽きるかも知れないですけどね。
自分に都合をつけて騙されてもオモシロイかも知れないけど、一番好きでやっている自分のやり方(考え)さえ、貫いていたら、実際聴いた人にはわかってもらえると思う。でも、どの場所にいってもちょっと居心地が悪いくらいの気持ちで、仲良くなりすぎるとイカンイカンって。それに今、流行の「反戦」でも何でもそうだけど、本当のことは自分で体験してみないとわからないじゃないですか。確かにレビューとかもきっかけにはなるけど、書かれたものでわかった気になったりするのが、一番危険なんじゃないかな。結局は信じたり、場所を決めたり、楽で流され易いんですよ。一つのことを盲信するのが私は好きではない。何でも広くみていきたいし、またジャンルに関わらずにいりろなひとにも聴いてもらいたい。だから、それぞれが自己責任をもたないと。そうしないと何を見ても感動できないし、考えたり、感じるのを止めたら(生きている)意味がないですよね
吉田さんはいいこと言うなァわかってるよ!アンタ!音だけじゃなくて日記もなにもそう。信念は貫こう。なんでもそうだがはじめに存在、ありきなんだよなー。確信がない曖昧模糊としたなか、責任持てない発言をタレ流して「誰々さんが言ってましたよ〜」とか言って責任転嫁するのがイヤだ。仕事も、音も、日記もね。関係性だけで甘んじていたくない。切っ掛けはなんでもいい。なんでもいいけど、そこで何かを感じ取ったり思ったりしたことは全部、自分のものなのだろう。その気持ち、大切にしよう。気持を出すのを怖がるのが怖いので、また日常に戻?フツウに書こうっと。とまた、地味に決心しました。こんなことの繰り返しですがこんなことの繰り返しでしか自分を実感できないのかも知れないデスネエー。

しかし、こんな風に考えすぎて頭がぐちゃぐちゃになっている自分が発見できてかなり楽しい。私もまだまだ夢見るガールですよ。エエ。一生、完成なんかされたくないよ。足掻いてもがいてカッコワルイまま死にたい。無様な自分が大好きだ。