吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

ダンサー・イン・ザ・ダーク

http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20031230#1072794611
でも書いてますが見ましたよ、リアルタイムでエエ。ネタバレちゅうんですか?平気でストーリーに触れまくるので知りたくない人はスルーしてください。めんどくさいので、あらすじとか書きませんよ。知りたい人はキーワードへ飛んでください。

もう、何がアレって。腹立たしいことこの上ないわけですよ。私なんか。ビョーク演じる主人公・セルマは悪い方を選ぶわけですよ。選択肢なんてはじめから用意されていないのよ、なんて盲目的に、そう、盲目的に選ぶわけですよ。そういうセルマを食い物にして、弱さ全開の隣人、ビルにもむかつき倒すわけです。単純な感動なんて微塵もなく、腹立たしさで胸が苦しくなって泣きました。

セルマは現実逃避をしてどんなつらい現実が訪れてもミュージカルに逃げ、楽しいだけの夢の世界を夢想するのです。殺人のあとも隣人に「きみはわるくはない」と抱きしめられ、言い聞かせられ、その場を逃げます。実際、悪くはないんだけど。でも、多分、セルマもちょっとビルが好きだったんちゃうんか?じゃなきゃ、約束よ、なんて甘い言葉で繋がりを求めようとするだろうか。だとしたら相当な功罪。
セルマの子供、ジーンは殺人を境にフェードアウトしてしまうのですが、結局、セルマはジーンの幸せを考えているようで全然、考えていなかった。目が見える事、それがジーンの幸福すべてだったのだろうか?自分を犠牲にして助けるよりも、セルマが生きて、ジーンが自分で稼いだお金で生きる、その方法はなかったのだろうか?自分の考えた幸せをジーンに押しつけていたのではないだろうか。だって、ジーンの幸せはジーンが決めるはずなのに。そのエゴが。負の応酬ですよ。マイナスからはマイナスしか生まれナインですよ!!!

人の声を聴くと、人は同じように声帯を震わすのだそうです。私はこの説は非常に説得力がある、と思っていて、実際、私は声を聴くと聴いた声と同じ形に声帯が変わるのが手に取るようにわかるのです。ビョークのその叫びは喉を首を絞められて叫ぶ断末魔と変わりません。唄う、ビョークの声、そして、死刑台で叫ぶヒステリックに泣き叫ぶビョークの声はまるで同じでした。
観ている人がこの映画を重く、いやな気分になるのだとしたら、それはビョークの声にあると思います。同じように首を絞められるのですから、ふつうの神経でしたらたまったモンじゃあないはずです。演じたビョーク北島マヤばりにイタコ化していてすごかったけど。

でも、どうしようもないどうにもできない悲劇的な現実というのはあるわけで。そういうときに人は何に希望を見出すのだろうか、と考えたら何もなけりゃあ自分で作るしかないわけで。それを白昼夢だと一刀両断するのもどうかと思う。本人が選んだ幸せならそれが他人からみたらえらく愚かでばかばかしい結末であろうとも、あーだこーだ言う筋合いではなくて、人の幸せは本人が決めるものなのだから、他人のものさしでは決められないのだなあ、と思った。
途中の伏線で「幸せな時だけを味わっていたかったら不幸を見なければ良い」というくだりがあって、最後の処刑のシーンを観ていたとき、もし、私が映画館でこれを観ていたなら、処刑を観ずに勝手に幸福を逆転をセルマのもう一つのありえた幸福を夢想して席を立てば良いのだろうと思った。そうすればきっと幸せである世界を夢想できたわけだけど、そんなものはまやかしでしかないわけで、私はその結末を観る方を選んだわけだけど。

なんか、私は当時、観たかったんだけど観なかった理由が上映前の番組でフミヤが出てきて「俺、ビョークには昔から目をつけてたんだよね〜」と言ったせいです。シュガーキューブスも知らねいオマエに語られる筋合いはありませんよ。ちなみにそれには篠原ともえも出ていました。

で、ひとしきり感動して動揺していたらTVでは明日の天気がはじまって、「港のヨーコ ヨコハマ ヨコスカ」を唄う、横浜銀蠅のPVが私の涙とともに流れたとさ。現実なんてトホホと悲劇の間ですよ。どんなときにもマヌケがつきまとう。そんな時に笑ってやれればそれはそれで幸福だ。