吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

今日でベルリンでのコンサートは終わりである。今日は杉本拓祭り。ギターカルテットにはじまって2セットの出演。だが音数は誰よりも少ないといういつもながらの超絶プレイである。一度も、彼の演奏を観た事がないという人はぜひ、経験すべきだと思う。時間の概念を再認識するであろう。あろうって何だ。
としまるさんの機材をみていて、ふと、観客に機材が見えないように工夫していることに気がついた。手元で何を操作しているのかわからないようになっているのである。そのことをとしまるさんに訊くと、身体と音の関連づけで先入観を持って観客に悟られないようにという配慮である。なるほどなあ、と思った。
昨今ではラップトップミュージシャンも増え、こういう工夫をしている人も増えた。見た目と音が同じで盛り上がりましょう、ここで楽しみましょう!というように蛍光ペンやテロップでオモシロポイントを示すような演奏は、かっこよくないという美意識からであろう。
私も特に声で演奏をしているので、恍惚としたり快楽的に走ったりすることのないよう、意識している。また、そういう演奏と言うのはインプロにおいていえば、非常に寒々しく思うのだ。もちろんポップミュージックなどエンターテーメント性の高い音楽も私は好きだし、否定するわけではない。ただ、自らはどうなのか?と問いた時、それはサムイしやりたくないと思う。あらゆる裏切り、破綻、想像以上のことが起こらないインプロなど面白くもなんともない。別に誰にも拠りかかることのない影響されない孤高な音。そういう音が確かにある。
杉本さんやとしまるさんらの素晴らしい演奏が続く中、自分もベルリンのミュージシャンらと演奏。きれいごとのような演奏になってしまってどうにも悔やまれた。そして、自分がどうしても許せない音、というのを発見した。
今から書くことは特定の誰かというわけではないので一緒にやった人が嫌だというわけではないので、気にしないでネ。
まず、嫌なのが人の音を真似してくるやつ。そして、合わせてくるやつだ。連れションじゃあないんだから、ほんっとにやめて欲しい。そうされるといきなりうんざりした気持ちになって私は音を出すのを止める。すると、その音は指針を失い行く場をなくし、霧散する。そもそも確固とした覚悟を持っていないのなら、持続音を安易に出すのはやめろ。持続音やサイン波というのは、その音だけでその場の音を強引に支配するということを意識しろ。Sachiko.Mやとしまるさんのようにサイン波を自在に扱える強い人しか使いこなせない最終奥義みたいなもんなんだからさぁ。
私は演奏で誰かと仲良しになりたいわけでもないし、友達を作るために音楽をやっているわけでもない。ましてやモテたいなんて思ってもいないし、思ったところでモテたためしもないので考えるだけ無駄である。
兎に角、そういうべたべたした関係を演奏にもちこむのは大嫌いだということだ。東京で活躍しているミュージシャンは基本的にその辺をちゃんと心得ている人が多いように思う。演奏は演奏、交友は交友。きっちり線引きをしている。それは演奏で妥協しないためというプロ意識のあらわれである。
もちろん日本のミュージシャンでもそういうところが曖昧になっており、まるで思い出作りや文化祭気取りでライブをする連中もいるが、そういうやつらはあきらかにつまらない演奏をしているし、心底鬱陶しいと感じる。そういう人に限ってうかつに対バンやセッションなどにもつれこむと末代まで、その人のディスコグラフィーのアクセサリーみたいに名前を使われたりするのである。大体さあ、共演者とかいう欄に嬉しそうに名前を書き連ねてるやつの自意識が気に入らない。バッカじゃなかろうか。その手柄はお前の手柄ではないのだから、勘違いも甚だしい。恥を知れ!と思うが別にわざわざ首根っこつかまえて説教するほど野暮ではないし、好きでもない人がそうやって恥をかいている様はざまあみろ、くらいにしか思わないのであった。私の性の根は必要以上に腐ってますヨ。
今回のフェスは打ち上げフェスティバルという名前で東京のミュージシャンを紹介しているのであるがある意味これは言い得て妙。ようするに「打ち上げ」という社交の場をあらかじめ別に設けることによってミュージシャンは演奏にべたべたした関係を持ち込まないように工夫しているのである。演奏者も人の子。別に鬼じゃないわけだし、一緒に出会った人たちとは仲良くはしたいという気持ちはある。私など情け深い、心の優しい人だと評判の人格者であるからこの制度は大いに役立っている。モテたいのなら、飲みの席でモテればいいじゃないか。