吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

私のほうがもっと上もっと変もっと詳しいもっとセンスがいい

 といって自分の趣味を押し付けるようにしても結局はその好きなものが良いと伝えることは難しい。伝え方のことをよく考える。そして、伝えた結果を考える。私はどうしたいのだろうかと思ったとき、そういうものばかり好きだなんて思わないでもっとおもしろいもっと変でもっとセンスのよいパロディでなく圧倒的にカッコヨクってシビレちゃうそういうものは世界にあることをあなたに知ってもらいたい。そして、もし、あなたがこれを好きになってくれたらとってもうれしい。そして、もっとたくさんの人が好きになってくれたらもっとうれしい、とその程度の思いがあったはずなのにいつのまにかそういった趣味のいいセンスの良い変なのものを知っている詳しい「自分」を好きになって欲しいとすりかわってしまうことが多々ある。
 だれだって自分の趣味を否定されたらムキになって怒るのだ。これが正しい、これは間違い。そんなものは存在しない。宗教と同じで好きということを他人が否定することは無闇にしないほうがいい。それは相手の存在そのものを否定するのと同じである。勘違いなんてない。相手がそれで幸せなんだから、水を差すように、それは違いますよなんて自分の価値観こそ尊くって素晴らしくってセンスが良くって絶対的に正しいなんて口が裂けても言えないものだ。言っちゃあいけない。相手をこてんぱんにやっつけて気持ち良くなるのが趣味ならしょうがないけど。それは悪趣味であって褒められたものじゃあないですよ。
 
 というか、世界は入れ子でできていて、きみが正しいと言ったその世界は実はずっとせまくて、それを見て嘲笑ってるもっとくわしい大人がいて、それをまたなにそんな詳しければいいわけ、センス良いって思い込んでるの自分だけじゃない?時代錯誤だねと思って嘲笑ってる人がいて、じゃあきみはそうやって一番最初に好きになったものだけを後生大事に磨きつづけているのがいいのかい?と嘲笑している人がいて、さらに結局、自ら何かを生み出すわけでもないくせにたかがリスナーがそんなふうにウジャウジャやっててバカみたいって嘲笑ってる人がいて、そういうミュージシャンに限ってつまらない音楽作ってるんだよなーとまた嘲笑する人がいて、結局、嘲笑している人はみんな一緒だよ、やれやれなんて煙草を一服する人まで出てきて、えーと、何がいいたいの?みたいになって、散々、逡巡した結果、やっぱり正解なんてない。そう、好きになるなんてタイミングでしかないんだよ。

 もし、私があのときにと思う。
 私は私の文化体験をすべて肯定することにしている。とりあえず、否定はなし、だ。あれとあれとあれとあれとあれとあれとあれとあれがリンクして今、これが好きだと選択できるのはあれとあれとあれとあれとあれとあれにあのとき、奇跡みたいに出会ったからだ。誰の評価でもなく、自分がただ、無根拠に好きだと思った、それが世界を広げるきっかけになった。あれとあれとあれが出会って、あれとはちょっとしか付き合えなかった。ものの3日で飽きたし、あれとは朝は好きだったけど夕方にはもううんざりだったし、けど、やっぱりはじめてのあれは未だに忘れられないあれなわけだ。

 そう考えるとどう考えたって何でも愛しい。その愛しい感情はかけがえもなく価値が下がるわけでもなく正解なわけで、それを知るきっかけがキャバクラのオッサンの説教だろうが自らおこずかい貯めて買ったはじめてのレコードだろうがライブハウスで期待してなかった対バンの演奏だろうがアニメのエンディングテーマだろうが好きな男の子が作ってくれたミックステープの中の一曲だろうがなんだろうがどうだろうが、関係ないのだ。そういう好きはその男の子のことを好きじゃなくなったってずっと好きであるはずだし、それこそ自分で選んで好きになった大切なかけがいのないものだと思い込んでしまったっていいんじゃないのかなと思う。

 好きなものはいっぱいあったほうがいい。もっといいものもっと好きなものはきっとあると無根拠に信じてしまおう。AからBに行く文法を知ればBからCにだってDにだって行けるはず。だけど、イキナリZに行っちゃうそんな冒険もあってもいいけど、まあ、ふつうは理解できないでしょう。けれど判断材料が増えたとき、理解できないの箱に入れておいたZが急にわかったりもするものなので、性急に答えを見つけて良い/悪いとか好き/嫌いと2択のみで決め付けていくのは好きを増やしていく妨げになる。昨日まではロクでもなかったのに今日からはいっとう好きになったり。恋愛みたいなものですか。そしてそれは幻想かも知れないけれど、夢を見ることってそんなに悪いことなのでしょうか。

 ということで自分のCDがもっと、売れないかなあと思った。