吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

オクタビオ・パスの『大いなる文法学者の猿』が読みたい

 昔、虹釜さんに借りた詩集だが、もっかい読みたいなあと思って調べたらめちゃめちゃ高値になっていた。欲しい……。

 あまりにも現実がしっくりこないので、ファンタジーが読みたくて仕方がない。こういうのが読みたい!という趣味がはっきりあるんだけど、それが見つからない。誰かおすすめしてくれないかな。もう、自分で書くしかないのか。自分が読みたいものって、ないよな。あったら読めるのに。なぜ、ないんだろう。本が読みたい気分が止まらない。積読から数冊手に取ったがしっくりこない。なんつーか、読みにくいやつ読みたい。歯ごたえのある本が読みたい。

 恋愛とか性的な匂いのする文が私は嫌い。あのべたべたした肌触りが苦手。相手に楽にショックを与える。楽してる感じがする。それ以上に生理的嫌悪。憎悪に近い。扱う材料が同じでもアウトプットの仕方で変わる。ここはセンスの問題。きれいな言葉の連なりが好きだ。見るのも嫌な文字列がある。醜い連なりのあとの快楽のため。それなら仕方がない。このきれいなフィニッシュのため。円。なだらかな連なり。

 あなたのこと軽蔑するわ。

 そうそう、苦手といえばこの女言葉もものすごく抵抗がある。けど、話とか書くとどうしても女言葉を受け入れざるを得ないときがあるんだけど。私は普段も「わ」とか言わないんだよね。そうだわ。何々だわ。きっとそうよ。みたいな。あたしとわたしと私。とかの主語について、無神経なのも嫌。大島弓子一人称は「わたし」なんだけど。いや、「わたし」を一人称に選ぶ女性作家は多い。これは、字面がやさしいのと「個」という意識が嫌だからなんだろう。私は私を使うのだが、これは私ということで主語をはっきりさせようという企みがある。そしてもっというと私の文は「誰」がを意図的に隠したりする。それは声のパフォーマンスからのインスピレーション。でも、これ書かないとわからんらしい。自分はもう一つくらいに分裂したい。

 Lifeから帰るときの朝が好きだ。
 高円寺あたりから見える送電線の連なりが好きだ。
 混んでいないJR中央線が好きだ。

 一日のうちの一瞬の深刻さ。誰もが共有する。空洞。

 せざるを得ない、の切実さでしか創れない。

 瓦解するさまがみたい。

 ひどく怯えるさまを嗤っている。

 自分の理想は自分が在なくなることだ。かたちが邪魔。得したことはあるのだろうか。いいのですよ。それでもいいという。私は小鳥を飼うべきでしょうか。

 その場所から逃げ出すのだ。ここまで掻くべきであるが。爪先に残る現象。電波猿のカクテル。夜のひっそり。地獄だと聞いていた場所なのにこれはこれで満足してしまう。蟹工船に乗った人も同じような気分ではなかったのか。永遠に変わらなく良い。ただ死ぬだけ。思考停止の甘い罠。嗤っている。猿が去る。大きな土の空洞。トンネルを掘るだけだ。目指す明かりはない。これがぼくの墓穴。世界の裏と通じる。まったくの反比例のぼくの返った皮膚と内臓が。ビート板の上に乗っけられる。夜の海は凪だ。黒く深い海原。遠くから聞こえる蛸。嘶きと悲鳴。私、の。なのか。倍々の上々。動けぬ。ドロドロと溶ろける手が掴む。重力。びゅうびぃゆうと耳の奥。草の先で切れる。疾風だと。まるで。脱穀。さらさらと謎めく。継ぐ。ボートの上で。オールを漕ぐ時。ここは海ではない。砂。

 まだ、私の体はあの場所に残されたままであった。
 つまり、あのあとのすべては夜の消えゆくあの瞬間までのまどろみでしかなく、私の夢である。

 ようようと燃える、消えていく。そう、が。その体躯の異常を。私は求めている。燃えている空。それが私の匂い。残すべき、香。