吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

ハイバイ「リサイクルショップ『KOBITO』」

http://hi-bye.net/

ハイハイからバイバイまでのハイバイの芝居、観た。ピポパ。

 いまはもう 人間もけものも 虫も植物も 区別はない!
 生き物という大きな兄弟みたいなものだ
 そうだ 生物家族だ

 (『火の鳥 未来編』手塚治虫

面白かった!むしろ、ふだん演劇を観ないマンガファンが観ても良かったと思う。特に手塚治虫火の鳥』、少女マンガが好きな人におすすめしたい。まさかの号泣。ちょうど、今、自分が考えている問題意識に近く、ヒントがあったので、観れて良かったです。

では、以下はネタバレを含むので観た人&一生観ない人は読んでください。四の五の言わずに観るのをおすすめしますが!

 舞台はリサイクルショップである。誰かが捨てた「何か」が、他の誰かの「価値」になる場所である。

 そのリサイクルショップでは、4人のオバさんが働いているのである。
 そこへ、新しいオバさん清水がやってくる。その清水には娘がいて、娘は引きこもりだという。

 で、彼女を救うために行われる劇が……『火の鳥 未来編』なのである。

 と、ここまで書くと、はっきり言って観た人しか理解できないと思う。この芝居の面白さはそこにある。観た人にしか、分からない曖昧なものをテーマにしている。

 この冗長とも思える劇中劇からグラデーションのようにフェードインしてくる。ただ、笑っていれば良いと思っていたオバさんにも、当たり前なのだが「人生」があるのだ。彼女たちの泣き笑いが、舞台で演じられる。リサイクルショップは宇宙だ。すべての世界にアクセスできる。それはまるで、『火の鳥』のムーピーが観せた“幻想”のように。私たちは笑いながらその人生を、取るに足らない、まるでこのリサイクルショップに捨てられたみたいな人生を、疑似体験するのだ。

 劇の展開に中だるみを与えない、という意図があるのもわかる。また、劇中劇をやることで、そこに真実を織り交ぜていくセンスに脱帽する。一体、何が真実で何が嘘なのか、上手に騙してくれる。まず、男性がオバさんのかっこうをするということが、どういうことなのか、という問いを投げかける。ここには、合理的な意図があるのも分かるが、岩井秀人が描こうとしているのは、男性女性という性差の問題ではなく、人間であるというのがわかる。

 これはアフタートークで、五反田団三島賞作家の、前田司郎が指摘していたことにも通じる。前田が、「(男だとわかっていても)パンツの中身を見ちゃう」という、観客に近いことを言ったとき、岩井は「えーそんな風に考えなかった」と言ったのだ。彼にとって、それは、非常に重要な問題で、何処か性に対する潔癖な所為を感じる。オバさんという存在を、女以外の何かにたとえている。それは、知り合いの女性だから、という短絡的なことではなく、理想とすべき人間像の一つと、想定しているからではなかったか。



 彼は、誰にも制止されることなく、本心を伝えたい。その言葉は無視されたくない。前半の火の鳥の、そう、リサイクルショップで、中学男子みたいに、遊びに興じる、あの世界で。




 先日、文化系トークLifeにお邪魔したとき、東浩紀さんがおっしゃっていたことが思い出された。

 動物化した未来/相手の言葉を聞かない人間/なのに会話が成立し/お互いが幸福である
 それは、そのままオバさんたちの世界と同じである。彼女たちは恥や外聞を捨てたことで、そんなユートピアを手に入れたのだろうか?

 前半のギャグと、後半のシリアスが乖離していく。しかし、その乖離は、矛盾は相反するものではない。悲しみを笑えなかった悲しみが舞台に浸透していく……。

 私が、こう、声をかけたかった、その言葉を、私ではない、誰か、そう、その誰かとは、ユートピアである、理想の、世界である、リサイクルショップの中で、その、そこで、出会った人が、あの、帰らない、あの日に、あなたが、居てくれれば、私は言葉を濁すことはなかった、私の声は相手に届いたのだ。

 一番、伝えたかった言葉は、その役以外が伝える。

 これは、理想だ。切り取られた、世界の理想。でも、この世界はなんて、ごみごみしくきたなく、登場人物も醜いのだろう。

 なのに、すべてがある。

 手塚治虫を引用していることにも意味がある。手塚はスター・システムを使っている。これは、同じ役者に違う役割を持たせる、ということだ。しかし、その役者の受け持つ役割とは同じ性格を持っている、というルールがある。鼻がでかい猿田役は、ブラックジャックで本間医師だったように。何順もするパラレルワールドで、過去の記憶を少しだけ持って、違う行いをしてしまうように。最近だと『ひぐらし』とか? 「他者」と「自己」の境界線があやふやになるところを中途半端な着替えにしたのは、意図的なのかどうなのか?

 最後に、富子が来た日。それは、清水を迎えたのが富子だったように。
 壁に向かってぶつぶつとつぶやいていた分裂病のあの子が、救われる日。

 ハッピーエンドはもう、分かっている。
 前半の芝居がハッピーエンドだったのだ。

 こーれーはー

 どうしようもなく少女マンガ的!

 そして、岩井は過去の自分の一部である、後輩を救うのだ。そうであった未来が、理想である。でも、理想は理想で、現実とは違う。この悲しみも含ませる。

 とゆーふーに私は楽しみました。岩井さんが、ネタにしたオバさんに観られたら泣いちゃうと言ってたのは本当だと思う。感受性が強すぎないとこういう芝居は書けないよなー。演劇が、あってよかったよね。そして、この芝居を今日、現在、観ることが私はとてもよかったと思いました。