吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

罵倒芸というのがあるらしい。

罵倒芸というのを考えるとこれ関西のボケツッコミのコミュニケーションに近いように思う。相手から自分の聞き出すためにわざと罵倒し、誘導するというやり方のようだ。
この罵倒芸を習得するには…

自分の芸(キャラ)を確立し、この人はこういう人なんですよと意思表明を表しておく。
罵倒した相手をただ貶めるのが目的ではない。
罵倒なれしてる。
同じ立ち位置で物言いがしたいと願う。
自分をオチに出来る。
相手側からも適宜ツッコめる余地を残す。
一回、絡んだ相手の反応に最後まで付き合う。
絡む相手のことを知りたいと思っている。
感情の部分を逆なでしつつも実は相手に逃げ道を用意する。
相手のことをかまってしまうのは愛があるからだと自覚している。
相手の立場を想像する。
嫌われる覚悟がある。
わかってくれる人だけわかってくれればいいと思っている。

そう考えると一連のJR西日本のマスコミの対応は罵倒であって罵倒芸ではないように思う。ああいうのは見苦しいし、そうやって追い詰めてなにが楽しいのだろうか。死んでお詫びしろと言えるのは遺族など当事者だけであって関係のない野次馬がやんややんやとやるのは本当にキモチがワルイものだ。
ボーリングうんぬんの件もそうでなんで関係のないところであそこまで言われるのだろうかと首を傾げる。冷たい怒りのエントリーを読ませてあげたい。
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20031017#p01

嘘やミスリードを広めたくなければ当事者しかその出来事を語ってはいけない。

なぜ、自分が体験したわけでもないことをさも体験したことのように語りたがるのだろうか?多分、それは自分が部外者だという疎外感や自分に語るべき物語がないという孤独や間違った正義感のせいなのかも知れない。

間違った情報を伝えないためには当事者が自らその事件を語る必要がある。アーカイブしていく理由はそれで充分だと思う。

当事者性を欠いた問題としてなんとなくイヤ〜な気分になったのは小林よしのりの「戦争論」が出たときに水木しげるが珍しく言及していたことを思い出す。水木しげるはご存知のとおり日本軍の南東方面作戦の最重要根拠地(もっとも危険な激戦地)ラバウルで最前線に送り込まれた経験者だ。そんな水木サンが小林よしのりの本を見て「最近、戦争論という大変勇ましい本が出た」と小林よしのりの本に気付き、あれに書かれているのは戦争の勇ましさや正当性であの戦争に突入しつつあるあの時代の空気を思い出して懐かしいとのことを書いていた。そして、それはどういうことかと言えば、水木サンのような劣等兵の視点とはずいぶん違う内容だということだ。あれに書かれた勇ましさの原因は「上等兵からの視点」のみの美談ではないのか?という皮肉を感じるものだった。水木サンの戦記ものとかを読むとわかるが、実際の現場で闘った人の過酷な状況はその当事者しかわかり得ないものであるとわかる。
私は水木サンを尊敬して止まない理由はそういうところで、妖怪の描き方だって、まず、その<現象>があってそれはどうして起きるの?不思議ですね?と<理由>を想像するというやり方を取っているところも一環している。

だから当事者性のないものからはある程度、想像はできるけど正しいことではない可能性が高い。よっぽど高位の巫女かシャーマンかであれば別かもしれないけれどね。そして人は記憶をコントロールして自分に都合のいいように書くし、誰か第三者の目を気にしたものであれば多かれ少なかれ観客によって左右されるのである。

同じ経験をしていないくせに共感できるはずがないのだ。

これは男女の性差の問題でもたびたび起こって私を苛立たせる。決定的に経験が不足しているのだからわかった気になることはできても完全にわかることはできない。想像の範疇外であるのだから無理にわかろうとしなくてもいい。ただ、言えるのは相手の話を訊くことだ。相手の話を訊いて相手がどうして欲しいのかを労わるくらいしか方法はないと思う。わからないという選択だってあるのに無理にわかりあおうとするから誤解が生じる。わかった気になって代弁者になると気持ちはいいかも知れないけれど。

単純に気持ちが良いということはちょっと怪しんだほうが良い。

罵倒芸のことに話を戻すが、ああいった罵倒芸を展開するために実はブログは向いていないと気が付いた。一流の罵倒芸人であるところのさやわか(お!やっと間違えずに書けるようになった!)さんのサイトneats.orgがどうしてああいったデザインなのかを考えるといいと思う。なぜ、更新も楽だし使わない手もないといわれるブログ全盛の時期において、言及しにくい仕組みをとっているのか。わざわざ、あそこを言及する際に「#148 ありふれた事件」としなければならないのか。何故、彼があらかじめエントリーごとに読ませることを拒絶しているのか。イマドキのトンガリボーイが何故!?

やってることはipodシャッフルと対極に位置する不自由さを感じる。利便さよりも不自由さを選ぶ理由って何だろう?今度、会ったら問い正したい。そんなことはわざわざ言うことではないカッコワルイもーんと軽快にかわされそうだけど(笑)。

でも!私はなんとなくその答えがわかるような気がする。そしてそれは音楽をアルバム通して聴くか好きな曲だけをダウンロードして聴くかとか、小説を頭から読まずに人の感想だけ読んでわかった気になることとかに近い気がする。

私はそういった不自由さや不便さは嫌いではないことに気が付く。経過を知らなければ得られない、経験をしなければ、理解できない、到達できない答えがある。
それがデザインすることなんじゃないかなーと思う。モノとして所有するヨロコビ、所有していたい欲求って確かにある。そして、それを購入することによって送り手と受け手は「代価」というコミュニケーションを成功させる。

例えば、音楽家・杉本拓のようにが74分間でたった3音しか出さない音楽が成立するように。彼はオーストラリアの演奏で観客にこう言い放った。

「ドアは開けておきます。いつでも席を立てるように」

観客は一人ずつ席を立って退席していった。
ある者は怒り、ある者は笑い、ある者はあきれ果てた。レスレスレスレス・・・そして、誰も居なくなった。

74分間を体験した私は静かな感動に包まれた。
彼が何をしたのか?74分間という時間をデザインしたのである。私達がネットを巡回した74分と彼がデザインした74分間は明らかに違う。まったくもって異質の時間である。それを意識したという「発見」があった。
本人は意図を語らなかったので私の感じたこととコンセプトは違うかも知れないけれど。

少し、ジャンルは違うけれど、私の好きな映画監督にロシアのソクーロフという人がいる。
彼は戦争の退屈さ不安さ不毛さを表すために「精神の声」で6時間という時間を費やし兵士を淡々と映し続けたのだ。兵士の疲弊を観客にちょっとだけでもおすそ分けってところだろうか。ハリウッドなんかの戦争をなんだか美化したみたいな映画に比べて真に迫るものではなかったか。

私は人はもっとその場に立ち合うべきだと思う。
心が動かないのはその現場に立ち会っていないからだ。
だから、ライブに来いよな!と思う。
もっと、世界を楽しもうじゃないか。
あなたを待っている場所はたくさんある。


見えないものをかたちにする。
見えないものをかたちにする。
見えないものをかたちにする。


ネットと妖怪と音楽は存外、よく似ている。

追記>詠聞録ことのはレイディオで今回のネタを取り上げてくれてますー。で、若干うえの文変えました。罵倒され慣れ罵倒し慣れする訓練が必要ではあります。話す場合、特にそうやって広げないと話が転がらないのでね!そういう場所でやるとなるとある程度親しい間柄で相手の出方わかんないとできなくなってそれが馴れ合いとか言われる原因なのかもね。馴れ合い芸ってのもあるし、馴れ合ってるさまみて面白いとこまでもってけたらそれはエンターテーメントですよ。じゃなきゃエッセイマンガなんかぜんぶ馴れ合いウザ!ですからな。