吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

いただいた感想を読んでいて

 書いて良かったーと思う判明、やっちゃった!感もありつつという気分については出す前に想像したとおりなんですけど、うれしかったのが似たような体験をした方から「自分のことかと思った」と感想をいただいたこと。それで改めて誤魔化さなかった部分の痛みが許された気がしました。自分がコレでどうこう変わるというモンでもないのですが、第三者に作用するのであれば私はそれが本望なので良かったし、出して良かったとはじめて思える。

 文学は、批評は、かつて人に影響を与える強い言葉でなかったのか?と立ち返り、じゃあどういう方法が「効く」のだろうか?と考えたとき、現在の私ができる効果的な方法として『サマースプリング』が在るのだと思う。こういう自己認識の物語というと大島弓子の一連の作品『バナナブレッドのプディング』などがあるんだけど私はどうしようもなくこの手の自己認識の物語にやられがちなので(笑)自分が考えられる一番、効くやり方を一つ、提示できたと自信を持ってもいいよね?

 また、意外だったのが「悲惨だけど、乾いている」「自意識の拗らせ方に嫌悪感が意外とわかない」という感想で、私としては「こいつキモチワルイけど、キモチワルイも含めて中学女子の自意識だから削らないでおこう。ただし、嫌な感じになりすぎないように気をつけよう」みたいな判断はあったので、ちゃんとそれが伝わっていたのが良かった。さらに「優れた児童文学だ」「すぐに読めた」という感想もうれしかった。細かくトラック分けして、文章へのアクセスをしやすくするなど、腐心した部分だったので。とにかく、最後まで読んでもらえるようにしなければ、これはダメだという意識がずっとあり、編集者の二人ともその点、すごく手をかけた。トークでもあったけれど、ダメだしが異様に多かったという噂どおり、ほんとうに血反吐を吐くように根気良く何回も何回も「これ以上はない」というギリギリまで一言一句目を通し続けたわけで、木村カナさんなどは空で暗唱できるほどになっていたという異様さ。そして、完璧な解説で作者のしたかったことを全部代弁できるところまで読み込んでくれていて、心底、感動した。郡さんはユリイカの頃から、わからない部分に対して極めて冷たい態度で「わからない」と言ういい意味で鬼畜な人で、まったく空気を読まないで作品の内容と人柄のようなものを混同せず、ジャッジする人。その点で、ひじょうに信用できる編集者なのだ。だから、私も嫌な部分もあったが、自分が目指す方向で効果的だというアイディアに対しては自分の判断を信用せずに、相手の意見を受け入れるということをした。どうしても、「自分を良く見せたい」という濁った本心が透けているものをこの文化系女子叢書の第一段でやってはならないのだと、強く意識していた。文化系女子が、ただのポーズではなく、もっと切実なものだと誰かが声を出さなければ伝わらないだろう。恥ずかしくてポーズと構えたほうがきっと楽なんである。しかし、そんなものは読みたくなくね?飽きたよね?私は飽きたよ!

 はじめて出す、本に、ここまで力を注いで作るというもうほとんどゲージュツの域を越える無駄な作業の多さが今ある新書などのお手軽さに対するアンチとなり、また、カウンターになるのだと信じ、苦労も厭わないまた、私の我儘も些細なものだとばかりの姿勢を貫いていただけたのは励みになったし、いやあほんとうに世界はまだまだ捨てたもんじゃない。と思った。加えて、この狂った編集者の妙な熱意を汲み取ってシリーズを刊行していただいた太田出版の英断にみんなもっと感謝するがいい!!!版元がなければ世に出なかったんだから。しかも、太田出版は営業力あるのでいろいろすみずみまで手にとりやすく、苦心してくださっているのがわかるのでありがたい。平積みしてある自分の本を見ると、なんともいえない気持ちになりますよ。逃げたくなるような、誇らしいような。


 早速、佐々木敦さんが昨日のトークの感想を書いてくださった。

 http://unknownmix.exblog.jp/5839391/

 はてなダイアラーばっかりじゃないのでご安心を!4分の1ほどが本を読んだ状況でネタバレにならないようにするには、絶妙のバランスだったと私は思ってます!また、踏み込んだトークはもうちょっと経ってからやりたいな(笑)。つーか、インタビューして欲しい!!!そして末文に「お茶目な佐々木敦がお送りしました」といれて欲しい!!フールズメイトの文章をサンプリング!
 佐々木さんもほんとーにヘタすると一番長いんじゃないかというくらいの昔からの知ってるんだけどこの関係も微妙な距離を置きながら音楽についても重要な時期に要所・要所で言葉にしてくれている信頼できる評論家の一人です。つくづく思うんだけどこの「どこかで見ていてくれる存在」というのが「在る」ということが、どれだけ作り手のモチベーションを上げることになることか!また、佐々木さんもミュージシャンと馴れ合わないことで距離を置き、きびしく仕事に徹していることを私も「見ている」。だから、信用できる。そして、その言葉に救われるし、励まされるのです。ここにもまた、極めて美しい関係の一つがあるといえます。知り合いや友達が同じ土俵や近い場所で一緒に何かしているとすぐに「友達だから甘えている関係だ」と貶めたり、軽んじたり、それを前提に評価する人がいて、目の辺りにするたび、心底、私をウンザリさせるわけですが、私はそういう評価基準が別にある馴れ合い的な土壌で褒められてもぜんぜん嬉しくないし、ヤリたいから褒めるみたいな下品さはすぐにバレるからしないほうがいいですよ…マジで。でも、そうなってしまうのもしょうがない。すべて自分の思い通りにコントロールなんてできない。そして、それを信じたい人がいるのもわかる。自分はそれが嫌なだけだけど。

 って話戻すけど、佐々木さんの言う

・アミちゃんと話すといつも思うことは、二人の、というか、二重の吉田アミがいる、というようなことだ。何というか、我を忘れて必死で走っているアミと、遠くからそれを佇んでじっと見ているアミがいるのだ。一個の「機械」となって「声=音」を発しているアミと、その姿を観察しているアミ。どっかのブログとかに書かれていた勝手な事柄について誰に頼まれたわけでもないのに膨大なエントリで反論しまくってるアミと、その空しさとバカバカしさと、その現実的なエフェクトを客観的に分析出来ているアミ。そして自らの忌むべき「過去=私性」を無防備とさえ思えるほどの赤裸裸な言葉で綴ってみせるアミと、それを冷静に淡々と読んでいるアミ。この類い稀れな二極のバランス感(アンバランス感?)こそが吉田アミなのだと思う。

 
 これは吉田アミ評として秀逸だと思いました。そして、まったく同じことを父親に言われたことがある(笑)。自分でも、

http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20041007/1097131831:titel

 エントリー書いていますね…。これが矛盾ではなく、並列にあるというのは今流行りの多視点的な作品との共通かも(買いかぶりすぎ!)。雨宮まみさんの文章も似た感覚ありますよね。こないだのエントリーの一人ボケツッコミとかね。この姿勢って実は水木しげる先生の姿勢と同じ。客観と主観が入り混じり拮抗しながらそれを甘んじて受け入れ要求されればそれを差し出すサービス精神みたいな。だから水木原理主義者なんですよねー。水木先生の戦争体験における客観と主観のバランス絶妙の作品にものすごく共感するんですヨネ。ああ私でもそう描くな、と。それが本当の意味での反戦なわけですよ。どっちかの意見が「正しい」なんてもんを作りたいわけじゃなく、もっとぐちゃぐちゃと有機的でどろどろして指し示せなくカテゴライズしずらい味わい深い世界が好きです。

  「私はカワイソウな被害者にはならないダスよ!」はタナカカツキさんの名著『オッス!トン子ちゃん』の名言ですが、ほんとにこの本に何か言葉を送るならそれしかねーよなーと思います。だから、カツキさんに装画描いてもらってそれしか考えられませんでした!!!!!!!それが実現できて、ほんとうに良かったです!!!!

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