吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

地球の裏の胡蝶の夢があなたに影響を及ぼすのか?

 風邪薬は眠くなる。ということで夢のお話。

 一日平均15時間くらい寝てました。風邪で。すごい寝ますね。びっくりしました。冷えがいけないという話を間に受けて以前買った電気あんかをひっぱりだしてきて利用しています。あったかいですよー電気あんか。で、これを腹の上において寝ていたら「おなかの上にアツアツのフライパンが置かれてて熱いけど手が出せない」という夢を見ました。そのまんますぎます。もちろん、そこまでアツアツにはならんのですが私のようにほとんど寝返りをうたない人間からすると低温火傷の危険が伴います。どうでもいいですが低音火傷というノイズのユニットってありそうですね。誰かこの名前でバンドを組むときは私が命名ということにしてください。適当ですが。他に見た夢は即死の危険があるアスレックジムのような道を歩いていたが、渡りきらずに途中で危険を回避。戻って電車に乗るがまだ、5分前で余裕だったった。という、危険そうだと思ったら迷わず引き返しましょう的な暗示の夢でした。

 そんな私は独自の夢判断(フロイトユングもちろん『マレー獏は悪夢を見ない―夢をコントロールする民族・セノイへの旅』大泉実成を参考に独自に複雑に考案)を行っておりその夢予報の精密度は年々、神がかり的なところまで来ている。大泉実成さんといえば、はてなダイアリーでプロクもかかれていらっしゃいますね。なのでご紹介→http://d.hatena.ne.jp/oizumi-m/。読んでますよ〜。

 てなわけで、先日も見事、人生の岐路を暗示する夢を見て、精神的ダメージを最小限に留めるなどナイス夢仕事。一見、平常心を装い慌てないフリができるのは夢予報のたまものである。その一方で驚きは少ないわけだがパニックになりそうなことについては事前に予習しておくほうが本番、失敗しないので良いのだ。ここ数年は海外に行く夢ばかりみる。チェックイン、チェックアウト、時間間違えずに荷物間違えずに何度も夢で予行練習…。以前はこれがテストだったり学校に遅刻だったりしたわけなので面白いですね。人間の不安の要素は常に同じくらいの匙加減が必要なのでしょうか。

 西川美和監督は映画『ゆれる』や『蛇イチゴ』の原案を夢で見たと語るように、夢が創作のヒントとなったり、人生のいろいろに影響することは多いですね。思いついただけでも、大島弓子の『ダリアの帯』や山本直樹の『ラジオの仏 山本の夢辞書1975−2004』やつげ義春の『夢の散歩者』やエイフェックス・ツインの『Ambient Works』など夢をモチーフにした作品は多い。多いといいながらその紹介作品が偏っていて狭く感じるのは気にしないことだ。私も気にしないで書き進めたい。

 私は小学校低学年の頃より「夢」に関してとりわけ興味がありがちな子どもであった。なのでクラスでオモシロイ夢を見る子たちから夢の話をよく聞いて回ったものである。しかし、多くの人がそうであるかのように「夢の話など他人が訊いてもオモシロクない」と感じている子が多く、夢の話をしているときは話す子と自分と一対一のことが多かった。私がやたらと面白がるので相手の話し方が段々、うまくなり多少、脚色も交えていたかもしれない。悪夢を見る子、願望を夢に見る子、現実に続く夢を見る子。いろいろであった。私がオモシロイと思ったのは「なぜかわからないけど、そのとき」となぜかわからないことが夢の中では不条理におこるので話として面白がったのだ。『不思議の国のアリス』と『マザーグースのうた』で育つとこういうことを面白がるようになってしまうので、子どもの教育には注意が必要だ。
 今となって思い出してみると、ものすごーく、紋切り型な話であるが、抑圧が強いとありえない夢をみがちで、無邪気だと現実に近い夢を見る。自分自身の経験と照らし合わせても、感覚的に「ある」と言えるのでその「傾向」は無視しない。人は直視したくない現実に戸惑うとき、夢やファンタジー、幻想に逃げるのだ。私はその人がどうしても作り出さずにいられなかった幻想を愛している。

 これはうまく説明できないのだけど…私が何かを区別し、偏愛するとき、この「幻想的」なものを選ぶ傾向がある。それについて、意識的になったのは水木しげる先生の『テレビくん』を読んだ時である。『ゲゲゲの鬼太郎』のアニメを再放送で観ていたときにも若干、感じたが独特の味わいが結実したこのマンガにはおおいにコーフンした。妖気的な魅力に取り付かれ、ホラー嗜好が強まったのであった。同時にこのマンガが掲載されていたマンガ文庫本を盗んだ話はユリイカの『オタクVSサブカル!』のインタビューで話したので割愛するが、この妖気的な魅力は何としても手に入れなければならない「何か」であったのだ。当時はその理由がまるでわからなかった。

 幼児期の私といえば幼児モデルをしており、いささか容姿には自身のある女児であった。そのことを鼻にかけていたかのような様子が当時のアルバムを見てとれた。今からは想像できないが「女性的自信に満ちた」表情をしている。これはよしながふみのマンガ『愛すべき娘たち』に描写されていた像と重なるが読んでいない人には意味不明なので飛ばして良し。その自信はその後、ネバーエンディングストーリーの幼なごころの君を見た時点で喪失するわけだが(ハーフには勝てないと思った)その後に自分が知った真理は「人は見た目ではない。内面だ」と明らかに『ネバーエンディングストーリー』の影響が見てとれる価値観の変更であった。しかし、それが幼ごころの君のまばゆいばかりの美しさを見たあと、己を鏡に映したとき「容姿では勝てない世界がある」と敗北したことが理由だということは避けたい現実であった。私は私の個性を獲得しなくてはならない、自分を発見しなければならないという強迫観念の中、見つけ出したのが「怪奇」いわゆる水木まんがにおける、プァーとした妖気であった。

 この、理解できない存在はこの世の中には「在る」。
 そして、「在る」を感じるいうことは、感じた当人には「現実」である。

 という考えが芽生えたのであった。

 そう、世の中には自分ではなんともならないどうにもできない不思議がある。ファンタジーや幻想はそういう困難に対するための耐性になる。予知夢を人が見るのは、ファンタジーが物語がこの世に「在る」のは、必要だと乞う現実があるからだ。現実なんて想像以上のことはおきない。想像以上のひどいことなんておきない。不幸な物語はワクチンだ。ならばワクチンは強くなくてなならない。人を傷つける危険ギリギリに処方されなければならない。効き目があるのは必要な人だけだ。届けばいいのは手を伸ばす人だけでいい。けれど、覿面にその人だけに処方されるならそれは救いになるだろう。

 かくいう私は水木しげるや数多のホラーに救われた。父親がゾンビ好き、ホラー、SF好きだったことが幸いし、骨髄まで染渡っている。怪奇的感度は良好でビビビと来る切実さに対し反射的に好きだと思う性質だ。私はその性質を誇らしく思う。親というのは選べないというが、ほんとうは自分で選んで生まれてきたんじゃないのかと勘違いしたくなるくらい、その一点に感謝している。そんな幸福な夢を見ていれば大丈夫。どんな戦場も生き延びれる気がする。世紀末、世界が終わっても壊れるトーキョーを見ながら「AKIRAみたいだ…」と呟くユーモアが備わっている。


 さて、この新年。

 うかれ、おとそ気分抜けぬ今。一休さんのように髑髏をかかげて「お気をつけなさいー」と練り歩きたくなるような不条理に見舞われ、意気消沈するときに、包帯やガーゼの変わりになる「作品」に私たちは出会ってきたか。そして、これからも出会っていけるだろうか。いつでも立ち戻れる物語が、笑い飛ばしてもいいと許してくれる居場所があっても、いい。むしろ、作っておくほうが平坦な戦場で生き残るなんちゃらの現実はパルコのキャッチコピーのように切ない日常のパレードは祈りを込めた行進は死んでしまうまでずっと続くのであった。

 どうせなら、美しい夢を。グッド・ナイト!おやすみなさい。