吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

高カロリー作品を消費する方法

http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20070405/1175744550

 で具体的な方法を書いてないので自分がいかにしてカロリー高い作品を消化するようにしているのかをちょっと書いてみようかしら。って、とっても長いです。

〜若いときは体力があったのか問題〜
 年取って体力が落ちたんじゃないの?という話ですが、確かに若いときはもっと難解な作品ばっかり摂取しておりました。でも、それって、元気だったからだけじゃなくって「自意識」の問題もあるよね。若いから「他人とは違う私」をアピールしなくてはツライという考え。だから、なるべく一般的にメジャーな大衆に評価される作品ではなく、なるべく人に知られていない難解な作品に目を向ける傾向に…。んで、メジャーでよくできた作品を「あんな低俗なモノにハマるなんてバカじゃないの?」と他者と自分を差別化し、つらい現実を忘れる…みたいな。現実で評価されてないという苛立ちがあると特にその傾向に走りがちではあります。けれど、それって別に悪いことでもなんでもないし、むしろ体力のあるときに難しい作品を摂取しておいて良かった!と今は思ってます。今のイキイキ人生に役立ってます! だって、この年で一からソクーロフは入門は難しいですよ!まあ、『太陽』ならわかりやすいと思うんだけど、他の作品なんか極ムズですよ!知らない人のために簡単に説明しとこうか。前に自分が書いた原稿引用するけど

http://www.sbcr.jp/bisista/mail/art.asp?newsid=2979

エウレカ! これは誰の視線なの?■
『精神の声』(1995年)はロシアで、はじめて内戦問題をテーマに撮影されたドキュメンタリー映画。5部構成で計328分の大長編。その1部では真っ白な雪原が延々38分間映し出されるだけというこれだけ書くと正気の沙汰か? と思うような手法で撮られた。また、『エルミタージュ幻想』(2002年)では映画史上初の90分ワンカットというこの作品でしか、体験し得ない「視点」の提示。なぜ、ソクーロフはこの視点からこの世界を覗き見させたのだろうか? 提示された視点の意味を考えてみよう。

っていうような映画ですね…。38分間真っ白な雪原観続けられますか!?っていう。でも、それを経験しないとわからないことが、あるんですよ!

 なんか私の中のレベルとしてはソクーロフの難解さに比べればまなびストレート!はわかりやすいのです。音楽なんかだともっと難解でサービス精神ゼロ!の世界にいるので難解な作品に対する受け取り方というのはかなり鍛えられているんですよ。だって、74分1音しか出ないライブとかザラですから。「くううう、今、音を出したか!シブイ!」っていう鑑賞の仕方が養われている(笑)。こんな高カロリーの音楽ばっかり聴いてたらそりゃあ作品鑑賞のための基礎体力が鍛えられまくります。それで感動するってどんな感受性ですかっていう。

 それはやっぱ若いときに基礎体力を養ったおかげで自意識のおかげで作品に対する評価の仕方が定まったんですねー。ほんと雑食しましたから。狂ったように何かを摂取し続けた時期ってのがあったんですよ。飢餓的な状態で世界を憎みまくっていたから「こんな世界は壊れればいい!」(セカイ系?)とか呪いながら、心のどこかで「私を受け入れてくれる世界がどこかに存在するかもしれない」という希望があったんですね。だから、探してたんです。当時は希望があったなんて思いもしなかったけどね。批判ばっかりしていたし、こんな作品はこの世になければいいのにとか憎んでました。何かを否定しないと何かを肯定できなかったんですよね。そして、肯定したいのは自分自身だったんですよ。今思うと。

 十代の僕は一種凶暴なほどに自分自身を憎んでいた。そしてそれ以上に、自分がその一隅を占めているところの「世界」そのものを憎み、呪っていた。世界は醜悪で愚かで腐敗を放っていて、それは僕の存在とうりふたつだった。(中島らも/飲酒自殺の手引きより)

 まさにこんな心境です。

 この時期こそが感受性の鍛え時!人間なんかに期待しないでガシガシ作品を摂取しまくれます!んで、よく、金がないっていうじゃないですか。金がなかったら作品観れないのかってーと、そんなことはない!体力があるうちは動け!新人は走れ!の法則。私はその時期をどうやりすごしていたのか?っていうと無料のイベントに行ってたんですねー。ギャラリーとか美術館とかの映像アーカイブ図書館を鬼利用。鬼の使い方間違ってますがほうっておいてください!図書館なら現代音楽のCDの映像も無料で観まくりんぐですよ!この時期に間違っても恋人とか作ったらいけません。彼女がいないのも言い訳できる童貞力を養うのです!いても真剣に付き合ってる場合じゃないです。いや、そういう相手がいるなら無理に「文化的な何か」は必要ないでしょう。「文化的な何か」が必要な人は相手がいても摂取し続けなければ生きてる気がしないという病なのです。そこまで真剣になれてしまうなら素質バッチリ!結局、愛情なんてのはかなりの確率で時間で換算できます。でも、ふつうは相手を見つけたら次第にフェードアウトしていくのが人の常です。私のようにいつまでも、好奇心が続き、未だに初心に戻って狂えるのはちょっと頭のネジが緩んでいるということでしょう。それだけ、自分の絶望が色濃いわけでもあります。常にどっかで「ものたりない、もっとスゴイものがあるんじゃないかしら?」と探求してしまう。そこまでしないと幸せだと感じられないカワイソーな人というのもいるのです。ココに。存在を無視しないで下さい!いるので。そして、そういう人はたいていその業を背負ってなんか作る人になっちゃうのです。「ないから作る」って、かっこよく聞こえるかも知れないけど、世界に満足していない証拠ですからね。満足してたら消費するだけで充分ですもん。不満は創造の母です。大切にしましょう。

 こんなの全然、羨ましくないのでみなさん、真似しないように!すっごい人生の無駄が多いですから…。それに作品を作るを最優先するのが骨身に沁みまくってますから常識ないわ、妙なところで子供っぽくなってスルー力が低下するわ、作品作りを優先するから人でなしだわ…。またその自分に対して自己嫌悪になるわで大変な騒ぎになるのですが、よく考えたら(考えなくても)これ私の個人の話なので一般化はできませんね。まあ、私はとりあえずそんな感じで生きてます。まだまだ全然、足りません。自分の視点と同じものが既に提示されているならそれで安心できるんですけど、ないと不安なんですね。こんな気持ちになるのが自分だけだと気がつくと誰ともコミュニケーションが取れないんじゃないか…と不安になる一方で、こんな面白いものを何故知らないんだ!と憤慨する気持ちもあって。だから、それを具現化しなければと思うし、すでにあるなら紹介しなきゃと思ちゃうんだけどね。自分が嫌な思いしてまで、なんかを作ったりしたくないんですけど、ないから作るというジレンマ。そして、自分の苦労とか不幸とかが上回るんですよ。不思議なことに。嫌だけど、出すっていうことがけっこうあります。そんな思いまでしてやらなきゃいいのにってふつうは思うんですが、出さないほうが苦痛なんですよね。そんなことってあるんですよ。どこって、ココに。「私…ここにいるよ…」ってどこのセカイ系ですかって話しですが。でも、これってブログになんか書いたりするのだって同じことだよね?

 なんで、大人になったら消化しやすい作品観ていいです!
 けど、若いうちから消化しやすい作品ばっかり観んな!!!!!!
 あとで体力がガクっと減ったとき楽しめる作品の幅が狭まるぜ!!!

 というのは言い切ってもいいかも。

 でねー、

アニメ体力: 全てが台無し―雑記帳―さんの

でも批判されると余計アニメ体力減るよなぁ。

 も、経験上、ちょうワカルんですよ!私の場合具体的に言うと、岡崎京子がマトモに評価できない。これは本当に損してるし、申し訳ないと思うんですけど。その理由を以前書いたんだけど、

リバーズ・エッジ/岡崎京子 - 日日≒日キ
あと周りのお姉さんらには総じて評判が悪く岡崎京子=パクリという悪いイメージがあった。マンガをあんまりしらない時にきっかけとして読むのは良いけど、昔の少女漫画(つーか大島弓子)の方がずっといいと思ってました。

岡崎京子と青春時代 - 日日≒日キ
↑ココは引用部分のサイト閉鎖しちゃったのですが、すごい言い得て妙と思ったよ当時。

 という理由でー自分より詳しい年上の友達が「岡崎京子はパクリばっかりでオッサンに媚びて仕事とってる絵も下手なのに」という評価があったからなんですねー。
 でも今ならわかる!この場合の岡崎京子評に限って言えばですが、そこには「うまくやりやがって羨ましい!」という嫉妬心があったんでしょ?ってこと。ほんと嫉妬というのは世界で一番めんどくさい感情です。それが見抜けたらその評価に左右されなかったんですけど、当時はお子ちゃまですからそんなことまで読めなかったんです。だから、自分より上の評価を鵜呑みにしがちなんです。そして、してしまった結果がのちのち「誰かの正当な評価を妨げる原因になる」可能性。
 評価基準が自分の中にできてない時って、どうしても他人の意見に影響されちゃうものです。そんで、疑問に思いつつもぐっと飲み込んじゃうとそれが最初から自分の意見であったように感じちゃうんですよ。そっちの方が優位に立てるから!楽なんですね。劣等感を抱かずにすみますから。

 こんな風になってしまう人もいる、ということもあるので私としては簡単な批判は書きたくないって思っちゃうんですよ。もちろん、人にもそうしろとは言う気もありませんし、変えられることはないでしょう。でも、せめて自分くらいはそうやってもいいんじゃね? とか思うし、そういう態度を示していれば、そっちの方が良いと思った人が少なくとも真似してくれるんじゃないかという淡い期待。それくらいは持ちたいという。

 でもね、そこで嫌いになっちゃったらその作品と自分の「縁がなかった」と割り切ることも必要だも(たぬきち風)。だってね、死ぬまでにこの世に生まれた作品すべてと出会って、そして、評価するなんてできないんですよ。人間一人の力じゃ。神様じゃあるまいし、真に<正しい>評価って一人じゃできないんです。時間が経ってから、いろいろな評価が出揃ってからじゃないと<正しい>判断はできないんです。それでも、判断を下さなければならない、また、それを引き受ける評論家になる責任と勇気があるなら別ですが。責任あるから批評家の批評は批評されてしかりなのです。

 でもね、できちゃうんですよ。責任感なくっても批判って。現状。できちゃうっていうのは私の価値観でいうと必要だってことになる。存在が今、ココにあるのは必要だからアル。それは自分にとっては必要ないと思えても誰かにとっては必要だからアル。って考えなので、可視化されても無視する、我慢するっていうのが要求されるわけです。しかし、それも縁があったから知ることができたとも言い換えられる。それを無視するのは縁を反故にすることにもなりかねない、と。

 で、私がそういう場合どうしてるかというとですね、関わるか関わらないかを決める基準は…

 「直感」なんですよ。

 もうここは、何かや誰かに責任を転嫁して決めるのをやめちゃうの。自分の「直感」だったら文句言えないんですよ。で、直感によって関わっちゃった&そのあと揉めちゃっても、絶対、その経過は無駄じゃないと思い込む。ってか、無駄じゃないし! 経験しておけば似た経験をしたときに選択肢が増えるわけですよ。悩める余地があるっていうのは選択に納得しやすくなるから。好ましいわけです。
 まなびストレート!で言えばしもじーの「無駄だったんでしょうか…」なわけです。自分にとっては無駄でも他人にとっては無駄じゃないかもしれないっていう考えですね。

 っていうのが私の精神衛生上楽になる方法論でした。私以外に役に立つかは微妙ですが。まあ、よく言われることですがあんま他人と比較するクセをつけないといいです。比較して劣ってるとか上回ってるとかマシとかマシじゃないとかそんなん考えたってしょうがないので。って、今書いて思ったけど、もちお(注:梅田望夫さんの愛称)も「直感を信じろ!」とか書いてましたね。おんなじこと言ってるじゃんとか思うでしょうけど、この直感を信じろって考えは誰かや何かや自分に責任を押し付けないですむっていうところがポイントです。もっちーもそういう考えの逡巡があってその答えになったのかも知れないですけど。他人を貶めたくないとか何かを嫌いになりたくない、捨てられないって想いが強かったり、捨てさせられた経験がある人なら共感するんじゃないかなーとかな。エリートの考えだと思う人がいるかも知れないけどどっちかっていうと不器用な人間だからこう考えたのだと思いますよ。こういう「直感」信じろ。っていう考え方は。実は責任転嫁の呪文なんです。そして、自分じゃあどうしようもないことがこの世にはある、という妖怪の存在さえも肯定する呪文であります。

 花森安治の言うとおり「世界はあなたのためにない」んです。誰か一人のために世界がないから、この世は複雑で答えがいくらでもあって分裂してわけがわからない状態のまま存在してるんですよ。推理小説と似てて「事件」が起きてからじゃないと「犯人」は探し出せない。事件を、作品を、料理を、何かが現われる前から犯人探ししても、材料が、判断材料がそろってないで、犯人だなんて決めることは愚かしいし、やっぱり残酷なことなんですよというようなことは少し肝に銘じておいたほうが、人には優しくできるし、大きな間違いを起こしにくくなっていいですよ。いいですよくらいしか言えませんけれど。

 ちなみにタイトルはあさっての方向へいっております。こういう文章が私はブログ向きだと思ってますがどうでしょうか。誌面でやったらウザいからな!

 というか、ココまでちゃんと読んだあなたは、少なくとも少ない材料だけで人を判断しないタイプといえるでしょう。そんな診断テストだったのか!?高カロリー作品も消化できる体力をお持ちのようです★