吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

ここ数年にやったことを振り返るよ!

 2012年1月から2014年4月までアップリンクでおもにイベントの企画や現場の運営をしておりました。その頃に企画したイベントやアップリンク以外でやっていたイベントや仕事を紹介したいと思います。いまさらブログを読み返していたら2012年〜2014年までほとんどブログを更新しておらず、自分でも何をやっていたのかわからなくなってきたので、これを機にまとめることにします。

 とにかく、この2年間死ぬほど忙しかく、インターネットはほとんどせずに、ちょうリア充生活を送っておりました。もともとフリーでイベントは長年にわたって企画してまいりましたが、個人でできることはたかが知れています。またどれだけの動員があれば黒字にできるのか、スタッフの配置から指示までした経験はありませんでした。スタッフの気苦労を知ること、スタッフがたのしく、創造的に仕事ができることはほんとうに些細な気遣いの積み重ねです。そういうことは実際経験してみないとわかりません。

 誰かが我慢して、無理をしないと成立しないような文化はいつか滅びます。

 自分の好きな、お世話になった文化的なものを守るために何ができるのか。ほんとうにおもしろいものを掛け値なしに楽しむためには、ホスピタリティを鍛えなくてはなりません。内輪であってはいけません。常にあたらしい人を受け入れる土壌でなくては、そのシーンは停滞し、沈黙し、作り手は忘れ去られるだけでしょう。目指すのは誰にとっても必要とされる、利害の一致でした。ここを間違え、儲け主義に走り過ぎると現場のスタッフが疲弊するという悪夢も待っているわけですが(笑)。

 自分達のノウハウを新しい人に受け継いでもらうためには、言語が必要です。あいまいな空気読めという脅迫めいたムードは察しのいい、その場にいて、長い時間を共有している人としかわかりあえないので非効率的です。行動を言語化していくこと、それは教育です。一方で、言葉だけで説明していても、行動が伴わなければ人は動いてくれません。まず、自分が手本になるように動かなくてはならない。そういう者を目指したわけです。

 裏方にまわることで、ひじょうに学ぶところは多く、自分がいかにアーティストとして、慢心した態度をとっていたのか、会場に迷惑をかけていたのかを知ったことはとてもいい経験だったと思います。しかし、これには大きな弊害がありました。その結果、自分の創作への情熱はなくなっていってしまったのです。また仕事の忙しさを逃げ場に使うようになってしまいました。ほかにもいろいろ問題があったのですが、目の前のことだけをこなしていくことだけに必死でシーン全体を見渡し、バランス感覚を養い、公平にいまのトレンドを察知する、新しいものを受け入れるインプットの時間がなくなってしまいました。ひじょうに閉じた状態になり、また、一方でここ数年、共作で書いている小説が一向に終わらないことに焦りを感じてきました。文化との距離感がわからなくなっていたのです。その折に今年の頭に骨折をしてしまい、タロットでいうと行きたくない場所に行っていると足を折るそうで、そういわれればそうかもなあ。自分の人生なのに優先順位がおかしくなっている、ということに気がついたのです。決定的だったのはホドロフスキーに会ったせいだと思いますが、サイコセラピーとタロットと、好きなことを命がけでしろ!芸術に身を費やせ!みたいな説法を訊いているうちに、自分は何やってるんだろう、もう、裏方の仕事は止めて、物作りに集中しよう!と思いつめるようになったら、完全に足が腫れて歩けなくなりました。退院はしたといえ、けっこうな複雑骨折であり、すぐに完治するものではないのにいきなり無理をしたせいで医者には怒られ、むしろその状況で歩けていたのは奇跡とまで言われる始末。痛みに強いらしく、ふつうはその状態で長時間歩き回れないのに!とおののかれ、自分を信じないように、歩いていい時間を決められたりしました。ははははは。まわりに迷惑をかけているという負い目で必要以上に無理をするという悪循環です。

 ということもあり、やっとまとまって、創作に時間がとれたため、いろいろ勘が戻ってきました。おかげでできないできないできない何年やればいいんだもういやだと言っていた小説の執筆も終盤にさしかかり、次回作のアイディアさえも出てくるようになってきました。その延長で、文章を書くこと、そして、それを読者に届けることを再度実感するために、文フリで新刊を出すことにしたのでした。みなさんよろしくお願いします!
 さらには、やりかたを忘れたかけていたインターネットのリハビリも兼ねて!人生をふりかえるよ、ここ数年を!