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吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

二つになる一つのもの

 ぼくたちはブレイクビーツを聴きながら、過去と現在の両方に耳を澄ます。そしてDJ は、フロアにおいて、そのようなブレイクビーツをいくつもいくつも接続させながら、それぞれの過去をさらにおおきな時間のなかに置きなおしてゆく。時には八時間以上も続けられることもあるそうしたセットのなかで、ぼくたちはダンスによって身体を現在につなぎながら、記憶を過去の経験へとフロウさせ、予測できない未来に感情を高ぶらせる。決して完結しない、たどりつくべき全体を想定していないそのような時間の推移にあって、当然、ぼくたちはすべてを聴き取ることは出来ず、不断の聴き逃し、聴き間違いの連続を経験することによって、実はすでにそこにあったのだが、ずっと聴き取ることが出来ていなかった過去の音たちへの想像力を鍛えることが出来るようになるだろう。班服され、積み重ねられるサンプルの一つ一つを聴き分け、一つのビートから複数の過去を経験すること。あるいは、それまで無関係だと思っていた過去が突然のようにつなぎ合わされ、一つの現在となって鳴り響くこと。現実に流れる時間のなかで、複数のものが一つになり、一つのものが複数に分岐してゆくーーブレイクビーツに聴き取ることが出来るこのような振動状態を、ぼくは「グルーヴィー」と呼びたい。(中略)

 グルーヴとはそもそも、レコード盤に刻まれた溝を指す言葉である。レコードの針がその溝にぴたりと嵌って、スムースに円盤が回転することによって、はじめて「グルーヴィー」な状態が生まれる。溝と針があり、その二つが一つになってサウンドが生み出され、また針と溝が分かれて現在と過去が離れ、音楽が終わる。これがグルーヴだ。
 音楽から離れても、たとえばぼくたちは、舞台の上でダンサーが踊りはじめるその瞬間にこのような振動状態を感じることが出来る。ステージ上で彼や彼女は、踊りながら徐々に、生身の身体と振り付けという図式に引き裂かれ、踊る主体と踊らせれる客体に分裂し、そして最後にはまた一人の人間に統一されて動きが止まる。そうした過程は実にグルーィーだ。
 役を演じるという作業にも、そのような変化への契機ははっきりと含まれているだろう。ある社会で暮らしているある人間が、それとは異なった状況を演じてみせるということ。見ている人がその行為を「演技」と受け止めるかどうかということも含めて、ここには一つのものが複数になってゆく震えがある。自分が自分のまま、異なった存在としてあることの可能性。舞台の上にはそのような経験を載せることが出来る。(中略)

 人は誰かの息子や娘でありながら、そのまま、誰かの父親や母親になることが出来る。一つのものが二つに分岐してゆく、こうしたシチュエーションはグルーヴィーだ。
 二つのものによって生み出される一つの経験は他にもある。たとえば、キスがそうだ。セックスもそうだ。はじまってから終わるまで、ぼくたちはその経験のなかで何度も重なりを変え、引き裂かれて枝分かれを続ける。これらの変化は必ず生き生きとした現実の時間のなかでおこなわれ、そして、行為の終わりには、一つだったはずのものはまた二つかそれ以上のものに分岐してゆくことになるだろう。個人的であると同時に一般的であり、また、精神的であると同時に肉体的である、という複数性においても、キスとセックスは実にグルーヴィーだ。(大谷能生『ジャズと自由は手にとって(地獄に)行く』「二つになる一つのもの」より)