吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

ブレア・ウィッチ・プロジェクト

ページのTOPにリンクしてあるくだらないマンガからも伺い知れるように今年最後の大失態を繰り出しその後、風邪を引き(当たり前だ)咳が止まらぬ。しかし、ああもきれいさっぱりと記憶がなくなるなんてげに恐ろしい。
 年の瀬に全ての業を清算したと思いたいほどだ。あああああああぁぁぁぁぁぁ(と奈落の底に落ちてゆく気分)。 まあ、そんな記憶を払拭するために何か記憶の上塗り出来るインパクトのある出来事がないかなぁと思っていた。そこへふと、TVのCMを観て気持ちが萎え気味であったある映画のことを思い出した。「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」である。
 そもそも私は夏から自分内ブームでホラーがキていたのと、前知識で「ドキュメンタリーを捏造した」というのでおもしろそーだなーと興味を持っていた。
 運良く今日は水曜日はレディースデーで1000円の吉祥寺のバウスシアターで上映しているではないか。神の恩恵と勝手に思いこみ、いざ、映画館へとゆうたを引き連れて繰り出した。
 映画館の前で今や遅しと待つことしばし、前回の客がドッと出て来た。口々に感想を述べる客や、顔を真っ青にしてうつむく客や、「金返せ!」と悪態をつく客など入り交じっていた。よっぽど恐ろしい映画なのか、それとも駄作なのか、客の様子からは伺い知れなかった。しかし、同じ列で並んでいた客の何人かが、「リング」や「らせん」といった角川のホラー映画の延長で来ていたようで少し私は場違いな気持ちになり、本当にこの映画は面白いのだろうか?と不安が増した。
 だが、今更、尻尾を巻いて逃げ出しては意気地なしとのレッテルを貼られかねない。ただ、黙って、順序よく整列し、館内へと呑み込まれて行った。
 暗転。
 映画が終わると、隣で顔を真っ青にしているゆうたが居た・・・。他にも会場には何人かが立ち上がれる真っ青にしている・・・。その一方、中学生の女子のグループがきゃーきゃーと黄色い声を上げ、「何この映画!!!」「全然、怖くねー!」「金返せって感じ〜」と口々に不満を漏らしていた。賛否両論の嵐が吹き荒れる中、沈むゆうたを引き連れて、何とか外へ。
 どうやらゆうたは心配されていた画面酔いに遭ったようだった。この映画は電波少年のようにハンディで撮ってある部分が多く、その手ぶれの為にクラクラと画面酔いを起こすらしい。幾ら、最近のTV番組でハンディカムが多用されていたり、ゲームの3Dなどで免疫がついて来たとはいえ、普段、そのようーな映像に対して抵抗がないものはこうしてむざむざとやられてしまうのか。何と情けない。
 映画は正直言って面白かった。
 自分が求めていたホラー観とノンフィクション観に合致していた。と、いうのも、私は真の意味でのドキュメンタリーなど有り得ないという考えの上で、ノンフィクションが好きだからである。なんだ、そりゃ、と首を傾げられてしかりだが、それはどうゆう事かというと、すべての人に見せるために作られた作品という物にノンフィクションなんて有り得ないという至極、当たり前な理由なのだ。その当たり前な事実を踏まえて作品が作られているのであればなんら問題も腹も立ちゃあしないが、ドキュメンタリーとかノンフィクションであるということを矢鱈滅多らウリにして、人にみせて金を貰うという尊い行為をないがしろにしている輩が気に喰わず、また、そのドキュメンタリーやフィクションであることにより、我々は観てくれてる皆様になんの嘘も方便もついていません、観たまま、感じたままをお伝えしているだけで、それをどう感じるかはあなた様次第ですよ・・・みたいな偽善に満ち満ちた逃げ口上を忌み嫌っているからだ。なにいってやがんだ。感情や経験は当人にしか得られぬものなのにまるで作品を通じて万人に同じ経験が得られるという思い上がりが微塵でも感じられる素振り、ホント、吐き気がする!編集したのは誰だよ、クソッタレ!と、思っているので、嫌いなのだ。そこでまた反論としてこれは編集などしていません、当人の観たそのままの映像ですなんていう風に売っていたらそれはそれで、ゲロを観せんな!ちゃんとお前の責任で編集しろ!クソッタレ!と女であるということもないがしろにして絶叫したくなるのであった。
 自身の怠慢を盾にしているガキの作ったモンは評価する理由も必要もないとばっさり切り捨てる方がずっと精神衛生上良い。まあ、そんな、私の私感の上ではくだらない馬鹿正直よりも良くできた嘘の方が評価されるのだ。どうせなら馬鹿正直なふりをしてものすごくずる賢く狡猾に計算されたモノの方がずっといい。
 一番、怖いモノというのは人間のイマジネーションだなんてドラゴンヘッド望月峯太郎が今更、言わなくても、既にすり切れたテーマだという「恐怖の根元の不透明さ」。単純明快でこれが恐怖の根元であり、しかもその恐怖を克服することで得られるカタルシスなど私はホラーに求めてはいない(水木しげるしかり、日野日出志しかり、スティーブン・キングラブクラフトしかり)。だからこのラストもうなずけるし、適度な、不親切さや不完全さは観客にイマジネーションを与える。それをつまらないとはき違えるのは観たモノが楽をして快楽を得ようと怠慢しているとしか思いようがない。つまらないと思ったり、何もその作品に得られるものがないと思ったなら、どうして自分がそれに食指を動かさなかったのか、考えてみたって罰はあたらないと、私は思うのだ。
 まあ、そんな自分の思い入れをなしにしても、伏線で張った「カメラの視線」の意味を、ラストの数分、交錯する現実と虚構がごちゃまぜの自分の足場さえ危うくしてしまうカメラワークに導き出したのは、ホラー映画としても純粋に恐怖感をもたらしたと思う。
 どうかと思う商業的な戦略はどうあれ、ああいう作品がメジャーにのし上がってごく一部のカルトでばかりではなく、多くの一般大衆の目を開眼させた功績は評価に値するのでは?そう考えると普段、カルトなど眼に入らないタイプの人間に広くアピールし、更に商業的にも成功した好例と言えるであろう。それはそれで喜ばしいことだと、妙にエラソーに思ったりする私であった。