吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

許せないのは自分なのだ

 http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20060520/1148095489

 分熊のコメントに反応しますが、そうなのです。
 許せないと言ってる相手とは自分なのですよ。

 なんだか最近、はてなの母だとか菩薩だとか言われたりして照れくさい。そんなマザーコンピュータ的な寛容さなんて私は持ち合わせてはいないのだ。書く事と行動することが完全に一致するわけがない。正しい、道徳的な文章を書くとさも、私が素晴らしいお人柄であるかのように思われる方もいらっしゃるかもしれないがそれは誤解だ。こんなにもくだらないどうしようもない心の狭いつまらない人間も珍しいだろう。私は他人よりも私と30年も付き合ってるのでわりと自分のことはわかるつもりでいるがそれでも得体の知れなさは変わらない。

 行動と思想が一致すること、それは理想である。

 私はたびたび、理想を描く。理想がない状態が嫌だ。目指す目標がないまま漫然と生きるのが嫌だ。こうだったらいいのに、こうなればいいのに、という希望を書くのだ。明示し、理解し、外に吐き出しもう一度、それを咀嚼する。自分外のものとして、客観的に見つめなければ気が済まない。そうしないと理解できないのだ。
 ダメだとわかっていてもダメかも知れないとわかっていても、そうしてしまうこと。というのがあって、私はそういうどうしようもない損とか得とかいっさいがぶっ飛んでしまう何かに期待してしまう。そして、そうやって直感でそうしてしまうことをした結果が現在の自分であり、私は現在の自分に満足していて、許してあげている。許してあげているのだ。

 私は私が好きだと言える。これは絶対に言える。即答できる。自分を好きになるように努力したしその結果の自分を愛している。そんな自分がいるこの世界を愛している。要約すればそういうことなのだ。

 もちろん、100%許しているわけはない。これが完璧だなんて思っていない。そう思ったら理想なんて浮かばないから。こうなりたいこうなっていきたい自分を夢想する。そして、歩み寄る。考える。考えたことを吐き出し、またそれを咀嚼する。何度も何度もためらいながらためしがきされる自分と向き合う。その幾重にも描かれたためしがきされた自分像の中からこれだ!という決定をして清書していく。そういうのが私は生きている感じがする。生きている国の味がする。私はそれを味わいたいし、世界は自分と無関係な覗き穴の向こう側であるなんて思いたくない。世界と関係していきたい。

 そういうことを選択してしまったのだ。