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この映画は私にとって反則すぎる。原案になっている絵本が好きなんだからかいじゅうが動いているだけでもう、降参。白旗をあげるしかない。しかも、自分が絵本を読んでいて「かいじゅうってこんな感じなんだろうな」と思っていたとおりの動きとヴィジュアル!絵本で描かれている以外のかいじゅうの姿、声。懐かしさが込み上げ、魂を持っていかれる。絵本の骨子をしっかりと受け継ぎつつ、絵本では見たことない世界があった。
子どものころ、絵本が好きだった、空想するのが好きだった、親から理不尽な仕打ちを受けた、さみしいという言葉を言えなかった、叫んで暴れるしか解決方法を知らなかった……そんなかつての子どもたちをピンポイントで攻撃する。
カメラワークが子ども=主人公マックスの視点と重なると同じ映像を観たことないのに、猛烈な既視感が襲う。共感を人質にしやがった。ずるい!ずるい!ずるすぎる!雪で作った秘密基地を破壊されて見上げた空とか机の下から母親を見上げ、パンストをつねるシーンとか。知らないのに知っている感じ。まんまとのめり込まされたのです。うまい嘘でだまされたくなるのがフィクションの魔法だ。かつてエヴァを観て「シンジくんは僕、綾波は私」とかいう人の気持ちがはじめて分かった。この感情、知っている。マックスは自分だ。
個人的な思い入れだけではあまりにもあんまりなので、ちゃんと良いところを書こう。以下、ネタバレあるので気をつけてね。
映画では絵本とは違うテーマがある。コミュニケーションの問題だ。親離れと言葉を獲得していくまでの子どもの成長物語。そういってしまえば話は早い。なーんだ。と膝ポーンで納得してしまうかもしれない。そこで説教くさくなってないのがいい。最後まで子ども側の視点で終わるからだ。
マックスという少年はどんな子どもだったのか。
両親が離婚し、母と姉と3人で暮らしている。姉や母には友達やボーイフレンドがいる。マックスは小さい。まだ、異性に恋する年ではない。自分の存在を無条件で認めてくれるはずの家族から疎外されている、と感じている。自分の中で芽生えたその感情を説明できない彼はかいじゅうになって暴れなくてはならない。叫び、泣き、そして破壊する。
彼の部屋には父親にもらった地球儀がある。世界はおまえのもの。地球儀にはそう記されている。王様になれ、と言ったのは父である。その言葉を信じている。だから彼は部屋の中にレゴで見知らぬ世界を作る。自分で作った世界で、彼は世界の王様になる。
マックスは「ごっこ遊び」に興じたり、物語を作るのが好きな空想好きな少年である。かいじゅたちの場所にいけるのはこんな子どもだからだ。家から飛び出し夜の街を走る。絵本では部屋の中がいつの間にかかいじゅうの場所へとつながったが、映画では主人公の空想かも?と思わせないように、ほんとうにかいじゅうのいる場所へ行ったかのような描き方をしている。ほかのファンタジー映画ではこういう演出はあまりしないのでびっくりした。例えば「ネバーエンディングストーリー」(原作の「はてしない物語」では前半部分だけの映画)は本の中へ、「ナルニア国物語」では、衣装だんすからナルニアへ。ファンタジーは異界である。しかし、「かいじゅうたちのいるところ」は異界ではない。現実から繋がっている必要があったのだ。
そう、「かいじゅうたちのいるところ」はマックスが作った世界でもある。部屋に作った彼の理想。家族から疎外された自分を受け入れてくれるクリーチャー。学校にもいないほんとうの友達が何処かにいるはず。これはマックスの空想なのだろうか?
違う。
「かいじゅうたちのいるところ」に行き着いたマックスは、キャロルというかいじゅうが、みんなで作った巣を破壊しているところに出くわす。マックスはキャロルに自分を重ね、キャロルとともに巣を破壊する。そこには言葉はない。叫びだけだ。吼えるだけでマックスとキャロルは分かり合う。
かいじゅうたちの巣はまさにマックスが彼の部屋にレゴで作った世界と同じかたちをしていた。それを破壊するということは、この世界がマックスの空想だけではできていないということを意味する。キャラクターたちが生きている。そう、この世界は確かに存在するのだ。
マックスとキャロルは意気投合し、かいじゅうたちのいる世界で王様になる。だけど、マックスは本当はただの子どもだ。王様ではない。かいじゅうたちがマックスを王様だと受け入れたのには彼らなりの理由があった。物語を描いているとキャラクターが動き出すということがあるように、かいじゅうたちはマックスの思い通りになっているようでまったく思い通りになってはいない。思い通りになったフリをしてくれているだけだ。最初から最後まで無力な子どものままである。現実と同じに。
キャロルはKWとう気になる女のかいじゅうがいる。だが、KWにはフクロウの友達がいてその友達と仲良くするのがキャロルには気に入らないのだ。互いに対立し、ケンカする二人によってかいじゅうたちはバラバラになっている。そこへやってきたのがマックスだったというわけ。マックスを受け入れることでキャロルの乱暴がなおってもとのとおりに仲良くしたいとみんなは思っている。
個別の巣はマックスの部屋。バラバラのかいじゅうたちはマックスの家族。個別の部屋は破壊するもの。部屋さえなければかいじゅうたちは家族は重なり合ってひとつになって眠るしかない。マックスという子どもを核にして。
キャロルはマックスを秘密の場所に連れて行く。キャロルはマックスに「理想の街」の模型を見せるのだ。マックスはキャロルの「理想の街」をみんなで作ることを提案する。理想の街を作るシーンでマックスの役割はプロデューサーだ。キャロルはクリエーターである。キャロルの理想の世界を作るために指揮をとるマックスがまったく作ることに役立っていないところがいい。ちょっと「チェブラーシカ」を思い出した。彼がたんなる無力な子どもでしかない、とも受け取れる。かいじゅうたちはマックスにきっかけを求め、マックスはそのきっかけを作るだけ。実際に何かを作るのはかいじゅうたち自身なのである。これはそのまま、チームで協力して何かを作り上げるときの一つの理想ケースみたいにも読めるので、監督スパイクジョーンズ自身とマックスが重なったりもする。
個別の巣ではなく大きな一つの巣の中でかいじゅうたちだけで眠ればいい。かいじゅう以外はこの理想の世界にいれたくない、というキャロルの願望。
一方、KWはマックスをフクロウたちに会わせていた。フクロウは何でも知っている賢者の象徴でそのまま「大人」の暗喩とも受け取れるだろう。このフクロウをKWが巣に連れてくると、かいじゅうたちは大喜び。ただし、キャロルを除いて。キャロルはこの理想の世界に違和を入れたくなかった。なぜなら、キャロルにはフクロウの言葉が理解できないから。これはそのままマックスが母親の恋人が家に入ってきたこと、姉が友達と車で出かけていったことと同じ印象を与える。自分と家族だけの世界に誰も入ってこないで、と。実はマックスにもフクロウの言葉が分からない。この世界でフクロウの言葉が分からないのはマックスとキャロルだけ。キャロルは当然、マックスは自分と同じ味方だと思っていたのに、フクロウを受け入れたことに腹を立てる。他者が介入したことで、理想の世界が汚されたように感じ壊そうとするのだ。それはそのままマックスが現実でしてきたことと同じである。マックスは自分をキャロルに重ね合わせることで、自分自身を客観する訓練をしているように見える。だからキャロルの気持ちをすごく察してしまう。彼はさみしいだけ。KWを、仲間を、世界を愛している。それは分かっている。分かっているから「この世界を壊さないでほしい」と思う。キャロルはほんとうは壊したくない。KWが好きなフクロウを受け入れなければならないとも思っているのを、マックスは知ってしまっている。だって、それはマックスがすでに体験した感情だから。
子どもにとって世界は親で家族で全てだ。それはぜんぶ自分のためにあるように錯覚する。だから思い通りにいかないとかんしゃくを起こし、地団太を踏むのだ。不平や不満を受け入れたくない。嫌いなものは見たくない。世界の王様のように万能感を味わえないと怒る。
だけど、
世界はおまえのためだけにあるわけじゃない。
そんな当たり前を知る。だから他者がいる。他者がいるから寂しくはないのだ。
子どもの世界が広がる一日。子どもが成長するのはほんと瞬きほどの一瞬。その一瞬を描いた物語。それが「かいじゅうたちのいるところ」である。
怒ったキャロルがマックスを「食べてやる!」と言って、追いかけると、KWがマックスを口の中へ隠してくれる。そのとき、マックスはキャロルをKWの視点で見る。これはKWの視点を自分の視点が重ねることで、KWの気持ちを知り、キャロル=マックスの中の子ども=かいじゅう化=親や大人に対する反発を客観するという暗喩になっている。マックスがKWの口の中に入るという行為は現実世界でマックスが親や大人の視点に立って自分を客観するということと同じなのだ。ファンタジーの中で現実との向き合い方を訓練している。親離れするためのレッスン、ほんとうはこうしたかったことを想像の中でやり直すような「ごっこ遊び」の最中とも読めるのだ。
そう考えるとかいじゅうたちとはマックスの分身でもあるともいえるし、また、彼の家族や友達と重なるところもある。しかし、かいじゅうたちはマックスのためだけにあるわけでもない。かいじゅうたちにはかいじゅうたちの思いがある。似た部分や似た感情似た境遇。暗喩は暗喩であってすべてはグラデーションのように重なり合う。他者と自身。自己がゆるやかに影響しあって、共感することでしか、相手を思いやれない。これは現実とまったく同じ。逃避のためのファンタジーでは、ないのだと気がつくだろう。自分になり他人になりかいじゅうになりそしてまた自分に戻る。違う立場で違う視点を持ち、KWに母親の必要性を説いたとき、マックスが急に家に帰りたくなるのはそのためだ。
キャロル以外のかいじゅうたちが実はマックスをただの人間の子どもだということを知っているのに王様扱いをしていたのだと明かされるところは水木しげるの「河童の三平」を思い出した。人間の川原三平が死んだあと、母親が悲しむだろうと河童の三平が三平のふりをしてい続けるのだが、最後に実は母親は何もかも知っていて、「でも あなたたちのやさしい心がうれしくてだまっていたのです……」と告げるあの話だ。大人が知っていて子どもに合わせてあげている。子どもの万能感は親の加護があってこそ、ということに子どもが気がつくのだ。
マックスはキャロルの孤独を知っている。だからキャロルのことをこう言う。「悪いやつじゃないんだ」。その言葉はそのまま、大人にそう理解してもらいたかったマックス自身である。そのことに気がついたマックスはキャロルより少しだけ先に大人になったのだ。最初は同じ子どもだったのに。
お姉さんへのプレゼントをほんとうは壊したくなかったマックス。
だけど壊してしまったマックス。
破壊することでしか感情を表現できなかったマックス。
彼はかいじゅうたちと出会ったことでモノを作る楽しさを思い出す。
壊すよりは作りたい。
巣の中に残されたキャロルへのプレゼントは姉へのプレゼントと同じものだった。
そして、姉がマックスにしてくれたようにキャロルもまた、マックスの愛に気がつく。
最後の別れのとき。キャロルとマックスの間に言葉がまた消える。はじめて島であったときと同じく、吼えあうのである。少し早く大人になったマックスにキャロルが追いついた瞬間。二人は一人に同じになる。そこに言葉はいらないのだ。
帰ってきたマックスは母親にとって、急にいい子になったように見えるかもしれない。たんに反抗期をすぎたように見えるかもしれない。けれど、子は親の知らないうちに大冒険をし、その経験から成長したのだ。そのことは親が知らない秘密。その秘密が少しずつ増えていくのが大人になるということなのだ。
最後に母親が眠る、その顔をマックスが見るとき、彼の顔が少しりりしくなる。血の繋がった他人を受け入れた瞬間だ。その母親の顔はKWにとてもよく似ているのだ。かいじゅうたちはいつもきみのそばにいる。だからこの結末は不思議とさみしくないのだろう。