吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

病気の話をカミングアウトしたらだいぶ気が落ち着いてきた

 カミングアウトは一回しかできない。という指摘は『水中、それは苦しい』の「カミングアウトの撤回」であったか。神様ー神様ーカミングアウトをもう一回ー♪
 と思って曲名を調べるために、ググったらsuichuで、猫ひろしとジョニー大蔵大臣のネットTVがスタートしました!というコンテンツが出てきたいた。しかも、月曜日〜金曜日まで22時から公開というすごい熱量。すごすぎる。無駄にすごすぎる。今、一回目を見ながらこれを書いているが、深夜ラジオとか名古屋なら『ラジオ DE ごめん』という深夜番組(TV)を見ていたときのような概知感に襲われる。
 ジョニーさんは今、高円寺の円盤で働いているとのことで、たまにファンがやってきて「ちょーウケル!マジ、いるよーちょうウケル〜!」と女子高生などにタメ口を叩かれたりするらしいのだけど、そんなときも、丁寧に敬語で受け答えするというエピソードを話してくれたのだけど、そんな感じの紳士らしさを猫ひろしがいい感じに下ネタに落とし込むのを阻止しているので視聴感がさわやかでいいですヨ。

 そういえば、今月はマカロニレコードのイベントでカリドル猫ひろしと対バンです。高校生以下無料という意味不明なイベントなので若き岡山ッ子たちは行くべきだと思う。っていうか、来い。
 http://d.hatena.ne.jp/colindisc/

 翔泳社からばるぼらさんの『ウェブアニメーション大百科』が届いた。誤字でねこぢるがねこじるになっているところが気になったが、それはどうでもいいことだ。私はウェブアニメーションに詳しくないが、ばるぼらさんの相当、独特な文体によって見てみたいと思わせるのは流石。←文体真似てみた。

 似たような感想を佐々木さんもしていた。
 http://www.faderbyheadz.com/a-Site/a-news.cgi?date=2006.08.07
 ここで、佐々木さんが書いてた川崎弘二著、大谷能生協力、佐々木暁造本装幀による超画期的な労作『日本の電子音楽』の感想の

あ、でも心の貧しい一部のマニアの方々は、この本をやたらと教条主義的に持ち上げたり、護符のごとく振りかざしたりは、くれぐれもなさらないように(あなた方が書いたわけではないのだから)。

 の一文が印象的。疑問に思うようなことがズバリ。教科書じゃないんだからと思います。

 吾妻ひでおの『うつうつひでお日記』を読む。『失踪日記』の前の話で、メイキングっぽい内容。作中に出てくるKさんのは吉田アミファンで(とか強調してみると何かいいことあるかも知れない)最近ではソクーロフの試写会の券をくれ、それのお陰で太田のやつとか書けたりしたのとかKさんにはなんか得体の知れない良いものを書き分けるセンスと縁を繋ぐ才能を感じる。吾妻ひでおが誰も相手にしなかったときに、良い作品なら出そうとするKさんの姿勢はカッコイイとしかいいようがない。ちなみに本人も作中ではアレな感じですけど(笑)ひじょうにカッコイイナイスな大人です。一言で言うとモテそう。なんかついうっかり、悩み事とか相談してしまうような素敵なお兄様って書くとキモチワルイな私が。

 んで、作中でも触れられているけれど、『失踪日記』は前の吾妻作品の売れ行きが悪いとの理由で出版を断られているんだけど、これは別に出版に限った話じゃなくってなんでもそうだけど、評価が画一化されていてわかりやすい数字がないと何かが生み出せなくなっているこの状況につまらなさを感じる。それには読者、受け手の感受性の質を上げる努力をしなくては、文化はどんどん衰退するのではと危惧する。簡単でわかりやすい、こないだの批評家トライアスロンで佐々木さんが言っていたサプリメント化したもの、即ち、効果がわかって飲むよな作品のみが受け入れられるというのは面白くもなんともない。確認するために見るのじゃなくって、発見するために出会いたいのに。どうしてこんなつまらない状況がまかりとおるのか。この状況にノーというためにはどうすればいいのか。そんなことを考えているのでそんなことをどうにかするイベントを企画します。追って告知。その場にいろ、関係しろ、世界とお前は一つつなぎだ!というのは希望であって絶望ではない。あなたの行動が何かを変える。何かを変えてしまう。

 「自分が誰かに影響するなんて 思ってもみなかった」(YOUNG&FINE山本直樹

 といえば、ダ・ヴィンチの『テレプシコーラ』が次回で第一部完結とのこと。さそうあきらもびっくりなひどい展開で山岸涼子(涼は二点)先生の集大成ともいえるすごいマンガ。ファンとしてずっと作品を追ってきた私ですが、これはすべての山岸涼子エッセンスが凝縮されている!と言い切れる。こうやって躊躇なく物語のために情を持たずに切り離すことができるのはカッコイイ。いいものを作るのが正しいのだ。情けでどうにかなるような幼稚な精神で何かを作るなんてあさましい。そして、どうせ、そういった感情に左右されて作品を作っているのだろうと邪推する気持ちは愚か。バカにするのもたいがいにしたほうがよい。実際に駄作を作れば直結して自分の首を締めるのだ。そういうギリギリの場所で安穏とせず、生きれる強さのある作品が好きだ。そして、物語は徐々に誰かが誰かのために誰かの感情が誰かに影響をしてそして物語が動き出すのだ。

 そんなこんなでうれしい感想などいろいろいただく。
 
 要約すると、「インターネットでしかあなたのことを知らなかったのですがこのたび音楽も聴いてみました。最初はびっくりしたのですが、だんだんと聴いているうちに引き込まれました。この感じは以前にも体験したことがあります。それは、○○のを聴いたときと同じで…」という感覚から感覚に飛ぶ描写に共感。同じように感覚から感覚にリンクすることを書いた文章はわかりやすくはソクーロフの『太陽』オフィシャルブックでも、水木しげる、濱谷浩の太陽を撮った写真、奥崎謙三ソクーロフの共通性の話でもしたが、私はこれだけは信用していい価値基準だと思っている。

 売れている、有名である、名前を知っている、から良いのではない。
 何故かわからないが思い入れてしまう作品が、良いものなのだ。そして、それには似た感覚を引き起こす共通性があるはずだ。私が好きではない面白いと思えない作品、いわいる良くないと思う作品の共通は一つ。本人が嘘をついている作品。その描写がフィクションであってももちろん良いけれど、その感覚は嘘だと意味がない。身につまされたギリギリの中でどうしても出さなくてはならないというような危機的な状況で出されたものに対してはリスペクトできる。アウトプットがマンガだろうが、レビューだろうが、評論であろうが、なんであろうがなんだっていい。純度は高いほうがいい。必死な感じがないなら、しゃしゃり出てくるな。自分以外に代わりがあると思うなら、恥ずかしくて出て来れないものじゃないはずなのにとか思うが別にわざわざそういって見つける体力もないし、どうせならオモシロイものを見続けたいので探さないけど。うっかり見てしまうとイラっとくることはたびたびあるなあ。それっぽいモノって苦手だ。多分、一生そうやって疑うのだろう。

 話はそれるが、なぜか『ネットランナー』にニュース記事を書くことになった。居なくなったらクビをきられたと思ってください!女子ライターを増やすとのことでその一貫で私にも声が。こういうまったく自分の活動と関係のない媒体に書けるのはオモシロイので、絶対にネットランナーの読者がいままで興味がなかったネタを提供してやろうと思う。こういう地味なところからまぜっかえしをして撹乱させなきゃ意味ないからね! というわけで、もし書店でお手に取られましたら拝読していただけるとと思ってますと謙虚な姿勢が大切です。