昨日のライブの話とか
ダントリウムを飲んだせいで、体中の力が抜けていわゆる虚脱状態に。朝もまだひどく、二度寝すれば薬が抜けるかなと思って眠って起きるが状態が変わらない。これでサンプラーをコロコロひいて行ける自信がないなと思い、迷惑は承知であったが、甘やかす宣言をしたあとだ、ライブの時間をズラしてもらうことに。もう2度ほど寝たり起きたり。18時過ぎくらいに起きたときに、爽快になった。おそろしいことにあの一錠の薬であれだけカチカチだった筋肉の硬直が緩和されている。シャクヤクカンゾウトウで治る範囲の痛みとダントリウムを飲むべき痛みの境界線がなんとなくわかった。ただ、まだ、飲み慣れていないせいで、効きが強い。だが、効果はてきめんである。少し希望が。でも、効き過ぎで怖くもある。
相変わらず時間があると病気のことばかり検索してしまう。ここ1月そんな調子で仕事以外でネットを周遊しなくなってしまった。というか、あんまり興味が持てない。人の話を訊く姿勢のない人に幾ら熱意を持っても馬耳東風。むしろ鬱陶しいだけである。そんな無駄な時間を過ごすなら体調を整える時間に費やすか、無理をしないで好きなことをできる生活にするためにできることを考え、行動した方が自分のためになるし、自分に興味を持ってくれている人にとっても良いと思うようになったのはこないだの批評家トライアスロンの影響かも知れない。そもそも興味がないところから興味を生み出すという努力は個人でするには限界があると思い知った。これから先のことを、未来のことを考えてたい。現状の確認ほどつまらないものはない。
しかし、気がつけば調べてしまう病気がらみの内容にもれなく死死死と死が身近過ぎて常にメメント・モリなのが気になる。今、私は世界で一番、メメント・モリな前衛家だろうと思うと愉快である。それは愉快であるが、私の病気の症状に近い、精神病の構造がヴォイスパフォーマンスのやり方とまったく同じであるという驚愕の事実を知りたくないのに知ってしまった。「緘黙症」というやつらしいのだが、不自然な姿勢をとり続けるというところなど非常に似ている。インタビューでもよく、答えているが、あれは発狂寸前まで追い込まれたときに発した奇声から「あれ、これけっこうオモシロクネ?」みたいに客観する自分が乖離した瞬間に気がついた歌唱法(?)なのであった。子供の頃からある症状をパフォーマンスに消化したわけだが、私はずっとつげ義春のマンガに描かれていた「不安神経症」という症状がこれと同じであると思っていた。しかし、どっちかというとこの「緘黙症」というのに思い当たる節が多すぎて困る。
自分の居場所みたいなものを見つけてからこの症状になることは稀だが、ここ数ヶ月近い感覚を思い出すのは過去の自分がフラッシュバックしてくるのだ。それは当時と同じ身体体験がそうさせるようだ。喉の奥がひゅうっとなって息苦しくなる症状である。それでもと、言って私は声を出すというあの感じに似ている。少し開いた喉の隙間にねんどをねじみそれでもそこに穴を開け、呼吸しようともがく感じだ。感覚だけは先にある。それに理由をつけ納得するのはいつも後の作業である。
腹痛もあったのでロキソニンを飲んでアペルに向かう。
上で最後の演奏が行われている中、のんびりと下で用意をする。時々、高橋さんから携帯にメールが来る。最初の方はわりとコラージュ的な感じでパラパラとした音の断片を組み合わせる。実はどこにどの音が入ってるか書いてあるメモを忘れてしまい、まんまな音で出すことはなかった。ピッチシフタ―で一番遅くして、徐々にフェードを上げたり上げなかったり突然、飽きて切り離すようにテープエコーをかけたりする。自閉症的なプレイをしていたがこの感覚はかつての自分と重なる。自分的には楽しくてしょうがない演奏であったが、客出しの演奏ということであんまり聴いている人もいなかった。それがまた、良かった。終わったあとに良かったといわれ、自分でも良かっただろうと思っていた演奏だったのでそう言われるのは素直に信じられる。特にこういう音楽を盲信的に聴いていない人に言われるとうれしい。
最安値の居酒屋「一休」に移動。アペルが10月で終わるという衝撃的な話を訊く。これはここでイベントを企画しなくては!と使命感にとらわれる。
その他。音楽シーンに関していろいろと私が疑問に思っていたことが自分だけの違和感でなかったということがわかり、安心する。何かを表現する人は自分に対して一番の批評者であるべきだと私は考えている。主観と客観は常に交じり合わなくてはならない。困難な方向と無難な方向があれば躊躇わず困難な方向を選ぶのが前衛家の宿命である。自らその名を語るならすすんでそっちに行かなくてはならない。居の中の蛙になったら終わりだ。世界の鮮やかさを信じたい。そっちのほうが、ずっと好い。
高橋さんがブログでhttp://blog.livedoor.jp/tattakappel/archives/50560704.html今日の感想を書いていた頃、満員の中央線で久しぶりに痴漢に合う。死ねばいいのにはこんなときにこそ使うべき言葉だ。持っていたサンプラー入りのカートで応戦。あまり効かない。鞄を右に左に手持ちを代えている様子があさましいのと、ずっとー耳元で「むぷーむぷー」と鼻息が荒いのが気になる。あまりにウザイので持っていた『太陽 オフィシャルブック』を取り出し、読むふりをする。当然、痴漢の顔面にはイッセー尾形の昭和天皇が。途端に退く痴漢。次の駅で右手のドアからいったん降りて(ドアから遠い場所なのに!)今度は髪の長い女性の後ろにぴったり。ああ、嫌だなあと思ってにらむ。
私は次の駅で降りねばならない。しかし、少し近い右手のドアから降りるとまた、あの痴漢の目前を行かねばならぬ。その時にまた、痴漢に遭わないかと思うと嫌だなと思う。かといって、このぎゅうぎゅうの状態で左手のドアまで行くのも難関だ。悩んでいると、自分の降りるべき駅に着いた。その瞬間、左手から「この人痴漢です!」と叫ぶ若い女性。えらい!と思う。「さあ、降りましょう!」と彼女が言うその瞬間、私は本能的に左手から降りることにし、彼女のサポートをするように痴漢を誘導する。降りた瞬間、誰もがめんどくさそうに通り過ぎる。痴漢は逃げようという素振りを姑息にみせたので私は大声を上げて「痴漢です!誰か男の人、抑えてください!」と誘導。すると3人くらいが取り囲んで、男を抑える。痴漢にあった女性は「誰か駅員さんを呼んでください!」と訴える。誰も彼女の被害を見たわけではないが、彼女の言葉を信じる。なぜならその痴漢の挙動が不審すぎるからだ。
私が去ったあと、大急ぎで警察が駅に駆けつけていた。
多分、どうにかなっただろう。相手が望まないことを無理やりやれば罰せられるのだ。ざまあみろと思いながら家に帰る。