吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

なまけものになりたい

 は水木しげるのエッセイ本だが、これに「猫」というタイトルのエッセイがある。猫はうまいのでソーセージにして食おうという話。要するに無駄な殺生をせず、利用できるものは利用していこうという。南方では家畜として猫や犬を「プチ」と言って食べるそうだ。他にも「無題」としたエッセイにはその辺をウロウロしている野良犬野良猫はどんどん捕まえ犬猫はを飼うというのは嗜好品であり、贅沢なんだから税金を払えという論調でオモシロイ。

 殺すくらいなら食べればいいじゃない、とか書いた私だが実際、食うかどうかといえばうまく料理してあれば食うだろう。そういえば前に似たような文章書いたなあと思ったらうさぎ食について書いたのがあったよ。

 http://www2.tky.3web.ne.jp/~amie/diary/p14.html

「こんなにかわいい○○を食べるのはかわいそう!動物虐待!」って考えに私はに同意できない。一生出来ないだろうなー。かわいくたって美味しければあたしゃ、食べるよ。悪いけど。だからって、自分の飼ってるペットを食うことも一生ないよ。かわいいからね。家畜は食べてもいいとかいろいろとその手の話にはガイドラインがあるそうだけど、そーやっていちいち決めごとを作って自分を納得させる足掻くところが人間って感じがして私は好きだ。

 
 考え方が微動だに変わっていなさすぎた。

 ただ無為に殺すというのは賛同しかねる。んじゃあ、害虫も殺さず、食えという話になる。食うわけがない。そもそも、食物ではないし。しかし、それが何かに利用できるのであればなるべく利用したほうがいいとは思う。されていないということは特に利用価値がないのだろうなぁと思う。

 猫エッセイマンガとしてオススメしたいのは大島弓子先生の「グーグーだって猫である」がオススメだ。大島弓子といえば件の『綿の国星』という傑作マンガがあるわけだけど、あれは猫の姿をした少女の話なので実は猫マンガではない。大島弓子本人もあの作品を描いていたときは猫を飼っておらず、猫に対する知識なども間違っている。その後、『サバ』シリーズがあってあれも描いている内容は擬人化された猫の話なのだが雌猫であるサバを美形の青年として描いている。そこが作品、文学である所以なわけだ。一転してサバが死んでしまったあと二匹目となる猫「グーグーは」猫のかたちをしている。
 有名な話なので知っている方も多いと思う。この心境の変化から大島弓子のマンガから完全なフィクションがなくなった。というか、描いていない。

 グーグーは二度目の猫だからよく考えて接するという幸運な猫として描かれている。今までの猫との接し方が実に人間本位であったというような描写が多くある。そうしないためには猫に対する知識を増やすこと。わからないことは専門家の意見を聞くということだ。猫の死から「悲しみよりも罪の意識がある」では、飼い主は罪の意識をなるべくもたずに接する方法をそれぞれが考えるべきなんだろう。けど、真剣になれないようなら命を預かるようなことはしないほうがいいのだ。猫に限らず人間でもそうだけど。

 私が嫌だなあこの人苦手だなあと思う人のパターンは勝手に相手のことを「こうに違いない!」と良く知りもしないくせに押し付けられた時だ。ほとんど恐怖を感じると言ってもいい。まあ、嫌いならしょうがないけど、それで好きだなどと言われると神経を疑う。なぜ、相手の意見を聞かないのか。興味がないならほうっておいて欲しいと思うのだけど、そういうわけにはいかないらしい。あと言葉に対してデリカシーがなさすぎる人も苦手だ。笑えない冗談も止めて欲しい。つまらないというよりも誤解を生みやすくなることを自覚したほうがいいのにと思うが他人に対してどうこうできる問題ではないのだから、そういう要素のある相手とはできるだけ関わらないようにして自衛するしかない。相手が自分と同じであるとわけないんだか理解できなかったりわかりあえない場合もある。しかし、それは仕方ない。せめて聞く耳を持つ人とだけ話がしたい。自分は自分で思っているよりもデリケートすぎる!

 うちの母親の頭が完全におかしかった中ニくらいのときに、妄想で私が夜中に出歩いているだとかありもしないことをべらべらとまくしたて、私の存在を無視しきった瞬間があったがアレはひどかった。その目の前にあるものを否定していくという経験はしてみるとわかるがマジで恐ろしい。まるで身に覚えのないことを言われているうちに自分の頭がおかしいのではないかとか疑いはじめどれが真実なのかわからない。目の前にあることが信じられなくなる感覚というのは頭をひどく混乱させる。このコップは何なのかとか、ほんとうにあるのか。と、すでに目の前にあるのに疑いだすという感じ。これは無駄すぎる。

 妄想はもっと愉快な方に使うほうがいい。

 いろいろと気持ちが落ち着かないので整理するためにだらだら書いている。
 
 忘れるために書くということがある。何か問題があるとそれについて何かと書いている気がする。一つが整理できないと次ができない。これ、変だよね。変だけどやめられないのは何ででしょうか。

 しかし、年をとるとだんだん自由がきかなくなるね。若いうちはなんでもとにかくやるべきだと思うけど25歳すぎたらそうそう価値観は大きく変わらないので苦手なことを克服しようとか思って頑張るのはあんまりしないほうがいいみたい。せっかく食べ物も好きなものしか食べないようになってきたのに。人生は短い。死を想え。死が身近だと思えばやりたくないことをやるなんてことが実にバカバカしいからやめろやめろと思うんだけどまたやってしまう。やってしまってから後悔するんだけどやってしまわないと後悔できないからしょうがないよね。

 まあ、しょうがない。自分の性格を直したらあんな音楽も文章も書けなくなるのでどう考えても直してはいかんのだ。苦悩と苦痛を引き受けながら必死でやるという姿勢と態度が作品に誠実さを与える。そうでないものなんて信じないし、あまり面白く感じないなあ。

 明らかに6月から頭がおかしいなあ。病気がわかってからの私の状態は今までできたことができないことへの不安と苛立ちばかりで満ちている。無理しなくていい。無理しなくてもいい。人に甘えてもいい。ということをその都度、自分に言い聞かせるのだけど、気がつくと相当、無理している。オモシロイのが自殺したいとかいう気持ちがまったく失せてるところで、すっごい長生きしたいんだよなあ。今は。

 ということで9月18日のイベントでは今、自分にも理解できない部分、わからない部分を明確にしていきたい。これだけ苦悩するということは知るチャンスに決まっている。いい機会じゃないか。どうせ考えるなと言っても自分は考えてしまうのだから考えて考えて考えきってしまったほうがいい。

 優しい人とだけつきあいたいなぁ。

 よく最近、言う言葉で「あのときは我慢したけどほんとうは嫌だった」とか言う。言えるようになったというか。我慢する必要がないかというと我慢はしたほうがいい。我慢しない人の方が怖い。我慢なんかしなくってもいいんです!というのは猫殺した作家の人とかの意見と同じだと思う。優しさとはなんだろう。とか漠然と考えたりした。