エロをめぐる冒険〜私たちは素敵な何かを手に入れられるのか?私たちは素敵な何かを作れるのか?〜
先日、書いた読書の秋にオススメ本!エロの敵とウェブアニメーション大百科 - 日日≒日キに八重子(id:anutpanna)さんからトラックバックをいただきました。というわけで、いろいろ考えてみました。段々、脱線していきます。
その前に誤解されたくないので書きますがこれと前回のエントリーは「エロの敵」に対する批判記事では在りません。私は「あれが足りない。これがない」というくらいならおまえが書けよ!と速攻で思うタイプなので「ないこと」が、批判には成りえないと考えています。「ない」なら誰か書けばいいのに…っていうかそういうのが読みたい!という希望です。そーなってくると、じゃあ、自分で書けば?となるわけですが、なにせ、自分は圧倒的に知識量が少ないです…。歴史ある分野なので今から勉強するとなると途方に暮れます。そもそも対象を知るには、そのことに興味があって、愛がある人が書かないと対象に対して失礼です。知らない人間が憶測でモノを書くことは恥でしかないので、私はこうやってアイディアを出したり希望するだけなのでした。ははは。私のような人間には荷が重いということで。適任者は他にいるはず!
えーと何で私が「ポルノ映画」を取り巻く状況に興味湧いたかというと、たまたまS&Mスナイパーから武智鉄二の「白日夢」*1のレビューの執筆依頼があったので資料をいろいろ読んでいたところ「えーポルノって表現の自由なの? エロなの?」と、疑問がわいていたからです。裸が珍しかった時代、映画で裸を出しちゃうのが前衛!という今だとなんという牧歌的。のどかだね〜という気になっちゃうわけですが、当時はそれに商品価値があったわけですよね。しかし、八重子さんが指摘しているとおり、武智鉄二の資料を読んでも映画的な視点での評価はあるもののエロの視点による評価はないんですよね。当時は映画的視点=芸術=高尚!みたいなのを隠れ蓑にエロを満喫ってことだったのでしょうか。白日夢のパンフレットにある
ハードコア撮影を敢行し、女性客も集めヒットした『白日夢』(1981)
という記述がひっかかったからです。一般的にヒットを飛ばしたということは芸術性が評価されたというより、エンターテーメント性が評価されたということだと思うんですが、女性がわざわざこの作品を観るというのはどんな状況だったのだろうかと。わざわざ書くくらいですから、理由はありそうです。当時のことを語った唐沢俊一のエッセイにも
映画マニアを気取って名画座回りなどを始めた時に出会った『白日夢』とか『華魁』なんて映画はまさにそれで、もちろん『白日夢』などは本番シーン目当てに鼻の下を伸ばしてズボンの下をつっぱらせて見たわけだが、興奮とかそれ以前に愛染京子の演技のあまりのヘタクソさに呆れかえって、「演技始動というものをしてるんかこのオッサン」とスクリーンに向かって思わず悪態をついたことを覚えている。
と、あるのを読むと、エロと芸術が並行してあった?ということなんだろうか。今だとエロと芸術が同梱されてるなんてケシカラン!もしくは、芸術の隠れ蓑が逆にエロになっているのでは? と感じるのですがどうなんでしょうか?
例えば、エロゲーにまつわるこんなインタビューがありました。
奈須きのこ:今の美少女ゲーム業界は、そういう意味で、まさに「生きている」と思うんです。(中略)現在の美少女ゲーム業界の状況はちょうど一昔まえの「にっかつロマンポルノ」*2の状況に似ていて、エロが入っていたらあとはなにをやってもいい、自由度が高くて人が集まる土壌になっていると思います。人が集まってくる業界というのは作家が生きている業界だということですよね。
エロが入っていたら何やってもいい!一時期の山本直樹のマンガもそんな感じだったなあ、と思い出します。エロゲーも細分化していってるので、今や無理矢理エロを入れなくとも一定のファンがつくようになった(←今ココ)で、エロはどんなものの最初に居るようです。
しかし、「生きている業界」。この言葉、重いですね。この「生きている業界」ってどこにあるんでしょうか?そう、私はその生きている業界から生まれる生きている、今この時代でなければ出会えないものにもっと、出会っていきたいのだ。
ここから大幅に話が脱線して、現在の作り手と受け手の関係について、私の考えを述べていきましょう。長すぎるので、たたむよ!!!
私は確認作業がつまらないと感じる人間です。あらかじめ期待しながら何かを受容するという姿勢がつまらない、それを知る前と知ったあとの衝撃度はあまり変わらないので面白くないのです。なるべく偏った先入観を持たずに作品と対峙するようにしたい。そういう出会いがあればあるほど、人生捨てたモンじゃない、楽しいじゃん。もっと参加していこう。もっと知りたい。となってくると思うんですよね。あらかじめ想像して、そんで体験しても想像以上のことが起こらなくって、さらに感想の言葉なんかインターネットに腐るほどあるから感じなくてもなんとなーくコピペするか、一回読んだ内容にそってなんとなーく納得するか、いや、自分がわざわざ書く必要がないなんてことになっちゃって、それって相当、居心地が悪いと思うんですよ。そこには受け手と作り手の不幸があるばかりか、お互いがお互いを信用してないで足を引っ張り合ってるみたいで虚しい。
居場所は自分で作らなきゃ、与えられるもんじゃあないんですけど、予め絶望しながら「これはこれでしかない」と決め付けながら相手や作品を見るというのは残酷なことだと思います。希望がないものに時間をかけるなら、自分がオモシロそうと思えるものに出会うほうに力を使ったほうが、良いことがおきそうです。希望がないということは、その作品を見たあとも見なかったあとも変化がないということでしょう。自分に変化がないままがいいなんてよっぽど「ありのままの自分」に自信があるのだなあと私なんかは羨ましく思います。
私は未だ完成されているなんておこがましいことを考えられない。もっと、良くなるべきだし、ここに立ち止まるのはもったいないと思う。人生一生勉強だし、もっと知って経験していけば失敗が少なくなりやすいけれど、まったくなくなるということは神様じゃないんだからありえないでしょう。それでも、と進むのが進歩というんじゃないのかなーと。
という状況をふまえつつ、そんな困難な状況で作り手はどうやって自分の中にある「物語」を、伝えたい人に伝えていくのか、と考えたときに一番、相手にカウンターを与えるのが予想しなかった場所からの闇討ちしかないのかも知れないのではないかと思い詰める。絶対に、この場所は、安全だ、お約束以外のことなんて、起こらない。と成熟しきった場所にこそ、実は入り込む余地があるんじゃないのかなーと思ってます。変化の起こらない場所に、新しい価値観、視点を積極的に増やしていくということを積極的にやる、という姿勢がある人がオモシロイものを作ってるんじゃないかな、と。
それが同人ゲーム界における、竜騎士07さんのような存在だったり、推理小説界における伊坂幸太郎だったり、舞城王太郎だったり、女性監督が撮ったとは思えない映画と評されるような「ゆれる」の西川美和だったり、それからもちろん『エロの敵』だったりって最近、自分が観てビックリしたものを羅列しましたが(笑)とか、とにかくギャップが衝撃を与えるもの、かなり強い表現が求められているように思う。そこまでしないと今まで興味がなかった人に届けられないのだ。
で、武智鉄二の件に戻りつつ何が言いたいのかといいますと、一昔前、人の創りし作品は、1つの意味だけで構成されているようなものではなかった。いろんなものがボーダレスで芸術も前衛もエロもごった煮になっていた。受け手も今ほど細分化されておらず、人が作ったものを積極的に受ける人/と受けない人の両極はあっても、今のようにエロにしか興味がないからエロ以外は見ないという状況ではなかった。エロ目当てで行って芸術に出会ったり、芸術目当てで行ってちんこが勃っちゃったり、頼んでもなかったのに自分の好きなものを見つけてしまう可能性が今より多かったんじゃないだろうか。そして、そうやって出合ったものっていうのは運命とか感じちゃって、えーと、まあ、恋みたいなもんですごく好きになっちゃたりするもんだと思う。これは何もエロに限った話じゃなくって、音楽でもなんでもそうなんだけど。私がつまらんと思うのは自分で自分に「ぼくはどうせ○○だから」とか魔法をかけちゃって他のものを「ないもの」にしてしまうということをするのは、変なショックを受けず安全かも知れないが、やっぱり面白くないし、その先には何もないって気がついちゃって絶望しちゃったらどうやって生きてけばいいんですか!私は考えただけでも気が狂いそうになります。自分の知っている世界以外にも世界が広がってて、それが私の頭では理解できないかも知れないと思ったほうが人生楽しそう。
モノだけじゃなくって、いまや思想やセンス、シニカルな視点、反社会的な視点などパターン化された世界観が用意されている。自分で一から世界を構築しようなんて考えるのがバカバカしいし、すでにある既成のものを使う方が無駄じゃない。でも、自分に返ってこない言葉でいくら武装したってそれは自分ではないわけで、ほんとうに楽しいなんて思えないだもの。だから、つまらないんじゃないのか。だから、諦めてしまうんじゃないか。だから、何も期待しないんじゃないか。だから、目の前にあるものに文句を言ってるだけになるんじゃないか。それならオッケー。自分は変わらない。ありのままの自分で居られる。何にも影響されない。すなわち、これがオリジナルってもんなんだよ。っと。んなわけはないじゃーん。あらかじめ、自分が「特別」だと思ってるの?そんなのは幻想です。妄想ですってば、となんとなく、この文章はネット向きではないですが(主張が強すぎる)、もう書いちゃったので載せちゃいます。こういう考えもあるし、また、そうじゃない考えもあるということで、一つ自分の考えとして、提示してみました。
というわけで、これは昔が良かったって話じゃなくって、これからはけっこうオモシロイことが起きそうって話。だけど、自ら世界を限定したらきっと楽しいことには気がつかない。新しいものには出会えない。だから、もっと、いろいろ見ましょう。得することばかり考えないで。悪いものも、良いものも見ていかないと自分にぴったりのものにそう簡単に出会えるほどあなたは簡単なのか? 1個みてぜんぶわかるほどあなたは頭が良いのか? だから、興味があるものをどんどん見ていきましょう。幸い、インターネットでは無料でいろいろ見たり聴いたりできるわけだし。そこで、たくさん知って自分の嗜好を知って自分の価値観を持って、そして、また何かに出会っていけばいい。そのためには自分から、希望を持って出会おうと思って、行かなくっちゃ出会えないのだ。
そして、作る側ももっと、作品に毒を混ぜなきゃダメだ。無菌室で育てられたノイズの少ない作品。いっちょあがりな即物的なエンターテーメントお待ちどーって、受け手をナメすぎ。バカだと思ってるから、バカに合わせて甘やかすんだろう。本気出してかかってかないと相手だって本気出してくれるわけないじゃん。一回限りで出会いは終わる。それを受け手のせいにするなんて、責任転嫁もいいところだ。もしくは、その成熟したシーンとやらで、仲良したちと馴れ合ってぬるま湯につかってるうちに、斜陽。衰退していくシーンにしがみつくくせに、新しいものを受け入れなけりゃその先は破滅しかない。(ってこの辺の項は自分に向けて書いてます。そうじゃない人はダメって話じゃなくってあくまでも理想の話です。全部がこうなれなんていう乱暴な話じゃなくってあくまでもオモシロイものが見たいならっていう話。そんな洗脳力も行使力ももたない文章だから書けることだ)
どうせ、やったって意味がないなんてつまんないこと言わずに。どうせ、失敗だったなんて他人の揚げ足なんて取ってるヒマがあるのなら世界と寝てしまえ!さっさと関係してしまえばいい。この世の楽しいことのほとんどは意味がないことなんだって気がつくでしょう。そもそも、自分が生きる存在理由を説明できる人なんているのでしょうか。もしくは、そういうのがなければ生きてちゃいけないんでしょうか。そんなことはない。だから、人は生きてるわけだ。結果を受け入れるしかないだろう。生まれたものに失敗でした、こんなことは、はじめからしなけりゃ良かったのになんて言ってもはじまんない。ってもう、はじまってますから、人生。
ほらね。絶望してるヒマなんてありゃしない。
また、自分で自分に説教をしていますね私は。
*1:http://www.takechitetsuji.com/
*2:映画の製作配給を行っていた「日活」(七八年〜九六年「にっかつ」)が七一年から八八年まで製作していた成人映画。芸術性の高さを評価されることも多く、現在でも人気が高い。また若い監督を積極的に起用し、山本晋也、神代辰巳などの監督を輩出した。