吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

好きなことだけしていいよ

 ハァ〜朝から調子がいいダスなぁ(どこいつのカエル風)。今日は辻斬り三昧じゃなくて、はじめてヨガにちょうせんするよ! ヨガってくるよ!それから文学フリマの表紙の打ち合わせと集金に行ってきて、夜は中華を食べるっちゅうか。そんな何でもない予定の中に滲み出る幸福感。ああ幸せ。なんつったって会社行かなくてイイ!散々、二束のわらじがどうとか書いてましたがもう、どうだって無理!体壊すし無理!嫌いなものは大嫌い!になったら辞めたほうがいいですね。でも、極限まで無理したので、今、この幸福感が味わえてます。ツイてるね!肩こりのおかげでマッサージの気持ちよさがわかるように。とはいってものこりの有給休暇消化中なのでまだ辞めてませんが…。これから私はとうぶん金のない生活を送ります。質素に地味に暮らしますがそのぶん、いろいろ集中して創れそうなのでそれがとてもうれしいです。我慢した分の反動でいくらでも跳躍できる気がします。あまりにもうれしくて泣いてます。最近、感情を抑える必要がなくなったので、文化に素直に入り込める。影響されることで自分の生活が脅かされる心配がないのはこんなにも楽しかったとは。どんどん影響されてどんどん変わっていきたいです。

 そうそうこのあいだ読んでたパンドラで流水賞優秀賞の『エレGY』ですが、ほんとに良かったです。銀座の喫茶店で後半は一気読みしたんですけど、号泣。ひさしぶりに本読んでこんなにハマったことはありません。幸せな読書体験でした。おかげで次の打ち合わせ遅れたが(笑)。言い訳になりません!
 何が良いのかというと、文体に気負った部分がなく、ややもすれば特徴がないくらいなのですが、こうのらりくらりとしてにらりひょんのように水のようになじむんですよね。ほんとうにつらい部分をリアルに書きすぎないことで、想像したい人には想像の余地があるけれど、目を背けたい人までそこで立ち止まらせない。読み進めていけることを優先している。たいした名言でもなんでもないふつうの言葉に血が通う時に訪れるカタルシス。なんでもないものがかげがえのないものになる瞬間。これは奇跡。
 
 読者と、作者の話とも読めるところも今の自分の問題意識と重なる部分もあって、非常に興味深かったです。まあ、そんなの抜きにしても良かったのですが、理想の読者と作者の関係ってこうかもしれないと思わせてくれた。だったらそれがいい。そして、自分も同じような体験をしているから、他人事として無視できないのかもしれない。読んででいるうちに受け手に対する愛情がいっきにあふれてきて、やはり、どこか自分の中で歯止めをかけていた感情を許してもらったような気がします。作者が読者を愛して何がいけないんでしょうか。っていう、後ろめたい気持ちを。後ろめたく思わなくていいんだって、緩やかな許し。

 だから、これは最高のラブレターであり、ファンレターであるとと思いました。この複雑な愛情が、そう、性愛だけではない愛情が私は好きだ。性愛だけならどこにでもいくらで尽きることなくあるし。在るだけで、尊い。

 やっぱり、読者と作者は無関係で神様にならないといけないとか読者を死に追いやるような言葉は私は嫌いなんだ。私も読者であるわけで、作者であるわけで、送り手であるわけで、そんなぜんぶの状態が自分なんだ。心地好い。それでいいんだと思えた。

 かつて私もまだ見ぬ読者のことを想って悔しくて泣いたくらいだしな。自分でもびっくりしたけど。あのときの悔しさはほんと忘れないわ。だから反射的に読者を貶めるような言葉も読者が作者を冒涜するだけの言葉もゲーと思ってしまう。なぜ、諍いあうの。無駄じゃない?それ。どっちかが、誰かが、一人だけ、一方的に気持ちよくなるようなことは罪悪だとさえ思う。むしろ私はそれだけでは満足できない。満たされない思いと怒りがあってそれが次の一歩につながるんだけど。だから満たされることなんて一生ないよ。でも、私はこの絶望の色がとても好きだ。

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