第二回『吉田アミ、か、大谷能生』
どちらがさきに口火をきったのか、もうわからない。vol.2
文筆家/即興演奏家である男女が、書き言葉を舞台上で引き裂き、揺らめかせようとする試み。
2017年3月1日(水)開場18:30/開演19:00〜
※ライブ終了後、トークディスカッションあり。
出演:大谷能生、吉田アミ スペシャルゲスト:滝口悠生(小説家)
料金:2,500円(1ドリンク付)
場所:荻窪ベルベットサン(東京都杉並区荻窪3-47-21 サンライズビル1F)
演奏家としてステージに立ち、また同時に、小説/批評/エッセイの書き手として文学に関わる吉田アミと大谷能生は、2010年から朗読=演奏のユニット<朗読DUO>として、多数のステージでパフォーマンスを行ってきました。
彼女/彼は、1990年代後半から試みられてきた、音と音楽、演奏することと聴き取ること、個人とアンサンブルの関係などを厳しく問い直す、あたらしい即興演奏の実践/批評に関わるところから、それぞれの活動をはじめました。
ここではその詳細に踏み込むことをしませんが、およそ十年は続いたこの実験的ムーブメントは多くの成果を生み、そのシーンを通過したミュージシャンたちは現在、自身の資質に当時の経験を改めて反映させながら、さまざまなかたちで演奏を継続させています。
彼女/彼は、自ら生み出し、展開させたこのようなエクストリームな即興演奏の方法と倫理を、言葉と声の分野においても実践できないだろうかと考えました。
書き言葉を舞台上で引き裂き、揺らめかせようとする試み――近代小説の前提である「黙読」というシステムで書かれた紙の上の言葉を、90年代後半から試みられてきた、ハードコアに個人主義的な日本のあたらしい即興演奏に接続することによって、まったくあたらしく響かせることは出来ないだろうか? このような無謀とも言えるアイディアから、吉田アミと大谷能生の<朗読DUO>は、はじめられました。
吉田アミの<ハウリング・ヴォイス>は、そもそも声の言語的使用・意味の伝達をまったく排除するところから形作られたものであり、大谷の楽器であるサックスは通常発話と同時に演奏されることはありません。胸と息と喉と声帯を使用しながら、その機能を言葉を伝えることとはまったく異なった状態に育て上げてきた即興演奏者が、その回路を通して、あるいは放棄して、ひとつの言葉を同時に読む。その言葉は、男性の声と女性の声のあいだで宙に釣られ、書き言葉がもともと持っていた「語り手の不明」さを明らかに示しながら、ひとつのものが同時に複数である経験をわたしたちに示してくれるでしょう。
これまで清澄白河Snac、浅草橋パラボリカ・ビス、アサヒ・アートスクエア、西麻布スーパーデラックスなどで試みられてきた彼女/彼らのステージは、現代文学/音楽の極端なオルタナティヴとして高く評価されてきました。2015年に「吉田アミ、か、大谷能生」名義で発表した舞台作品、『デジタル・ディスレクシア』から一年の充電期間を経て、2017年、毎回さまざまなゲストをお呼びしながら、およそ隔月のペースで、荻窪ベルベット・サンを中心にライブを企画してゆく予定です。われわれのステージにご期待ください。
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告知動画です!
3/1(水) 吉田アミ、か、大谷能生【出演:大谷能生・吉田アミ・滝口悠生】
吉田アミ、か、大谷能生
吉田アミ(よしだ あみ)
音楽・文筆・前衛家。1990年頃より音楽活動を開始。2003年にソロアルバム「虎鶫」をリリース。同年、Utah KawasakiとのユニットastrotwinとSachiko.MとのユニットcosmosのCD「astrotwin+cosmos」がアルスエレクトロニカデジタル・ミュージック部門のグランプリにあたるゴールデンニカを受賞。文筆家としても活躍し、小説やレビュー・論考を発表。著書に「サマースプリング」(太田出版)、小説「雪ちゃんの言うことは絶対。」(講談社)がある。
大谷能生(おおたに よしお)
1972年生まれ。音楽(サックス・エレクトロニクス・作編曲・トラックメイキング)/批評(ジャズ史・20世紀音楽史・音楽理論)。96年〜02年まで音楽批評誌「Espresso」を編集・執筆。菊地成孔との共著『憂鬱と官能を教えた学校』や、単著『貧しい音楽』『散文世界の散漫な散策 二〇世紀の批評を読む』『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』など著作多数。音楽家としてはsim、mas、JazzDommunisters、呑むズ、蓮沼執太フィルなど多くのグループやセッションに参加。ソロ・アルバム『「河岸忘日抄」より』、『舞台のための音楽2』をHEADZから、『Jazz Abstractions』をBlackSmokerからリリース。映画『乱暴と待機』の音楽および「相対性理論と大谷能生」名義で主題歌を担当。チェルフィッチュ、東京デスロック、中野茂樹+フランケンズ、岩渕貞太、鈴木ユキオ、大橋可也&ダンサーズ、室伏鴻、イデビアン・クルーなど、これまで50本以上の舞台作品に参加している。また、吉田アミとの「吉田アミ、か、大谷能生」では、朗読/音楽/文学の越境実験を継続的に展開中。山縣太一作・演出・振付作品『海底で履く靴には紐がない』(2015)、『ドッグマンノーライフ』(2016/第61回岸田戯曲賞最終選考候補)では主演を務める。最新作は『JazzAlternative』(2016/Blacksmoker)。
スペシャルゲスト
滝口悠生(たきぐち・ゆうしょう)
小説家。1982年生まれ。2011年「楽器」で新潮新人賞を受けデビュー。15年、映画「男はつらいよ」シリーズをモチーフにした『愛と人生』(講談社)で野間文芸新人賞。16年、『死んでいない者』(文藝春秋)で芥川賞。デビューから一貫して小説におけるナラティブ(語り)を重視した作品を発表。音楽や映画や落語などしばしば異ジャンルへと侵蝕しながらユーモラスな小説世界を展開する。他の著書に『寝相』『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』(ともに新潮社)。
なお、当日は吉田アミが寄稿した『文鯨』2号最新号の販売もあります!会場に来て、ぜひお手に取ってください。(2017.2.28追記)
今年は隔月で荻窪ベルベットサンを中心にイベントをやっていきたいと思いまーす(トミックで)。前回の榎本櫻湖ちゃんもとんでもなかったのですが(いやーほんと面白かった)、まず、第一声が素晴らしかったですね。音楽的にも反応速度もセンスいいし、能生も「長いつき合いになりそうだ」と思わずいうくらいで、いい人を紹介でできてよかった。反則なくらいくそおもしろいので、次回のYoutuberイベントも楽しみですね! なんか知らないけど、ほぼ毎日のようにしょうもないことをLINEとかでやりとりしてます。油断するとイケメンの裸の写真とか送ってきます。
で、今回の2回目にはゲストに小説家の滝口悠生さんが出演していただけることになりました。小説を一冊も読んでいないという失礼な状態ながらもその後、文化屋雑貨の打ち上げとか忘年会でなぜか、ものすごく一方的にしゃべってしまい、なんでこんなに話しやすいんだろうという、そしてわたしはなんでこんなに喋れなくなるのか、頭の中で整理がつかないことをそのまま言い続けてもなんかいい感じに話を聞いてくれるこの人、すごい! とか思ったんですが、
結末とは別のところへ 滝口悠生/幸せ一郎さんインタビュー • anomura / アノムラ -すてきな声に、会いにいこう-
ここのインタビューで幸せ一郎さんが悠生くんのことを「墓石」と表現していて、ものすごく納得した。墓石かー。まあ、前後して、サクラコの部屋に出演して、朗読してるのを観て、またトークが面白くて、この人しゃべるのも人の話を聞くのもうまいなあと異様に感心して、そのあと、小説読んだらめちゃめちゃ面白くて驚くという、うわ飲み会で話してて面白くて作品も面白いなんて、なんて狡いんだ! と思い、わたしが勝手にファンになってしまいました。悠生くんの朗読もほとんど普段喋っているように一言一句淀みなく力の抜けた声でほとんど小説のままという、これはこの声で再生されるべきリズムとテンポだなあと、あまりの再現度の高さに驚いたんですが、あとになって小説読んだらその読んだ内容をしっかり覚えていて、ちょっと自分でもびっくりしました。一回、朗読聞いただけなのに。で、朗読DUOはずっと、カッセトテープをテーマにしていて、最近の自分の作品でも『あしたのきょうだい』では、張祐寿ちゃんが家族と劇団四季のカセットテープを聞いていた時、祐寿ちゃんが間違えて、録音ボタンを押してしまって、家族の団欒が録れてしまうという「こ、この子、持ってる!!!」というすごいテープで、まあ、そういうふうに、使ったり、大橋可也さんのダンス公演『テンペスト』に出た時も山縣太一くんの声を録音して、再生するということもやったりしてるし、『ディジタル・ディスレクシア』自体もカセットテープがテーマで、そもそも、わたしが音楽作り始めた頃って、カセットテープで作品を作って発表するしか方法なかったから、わりと思い入れがあるんですよね。カセットテープは、個人的なものや記憶に結びつきやすいし、フィジカルに再生するということによって、その場にいないものを亡霊のように呼び覚ますようなところがある。サムライミの『死霊のはらわた』はそのまんまカセットテープ再生したらそこに呪いの言葉が入っていて、死霊を呼び覚ますという話でしたが。それと、持ち運びができて、ポータブルに簡単に録音できるということが一番最初にできたし。今だと、動画になってしまうのだけど、自分はYoutubeを狂ったように見てますが、その刹那的なものや、写ってはいけないものが記録されているという盗み見のような、ものはYoutube上には量産されていて、そこにもやはり無数のドラマがあるわけだけれど、動画になってしまったものは動きや言葉を編集してあるから、記録に近く感じられて、記憶ではないと思う。在りし日の音を聞くことで、その日のことが鮮明に呼び覚まされるという体験はやっぱり、音だけで映像がないほうが強く印象に残るというようなことはありませんか。そういう手触りのようなものが喚起されやすいんだと思うんですよね。なんで、今回はカセットテープを使おうって話になっていて、どう使うのかまだ決めていないけれど、なんかふつうの朗読とは違うものにはなると思う。音楽から文学に歩み寄る、音楽そのものが文学になるというようなことは能生とは話していて、それが可能だと思って我々はこのめんどくさいユニットを続けていて、それができていると思っているので、そのへんについても話ができればなあとかわたしは期待しているのだった。もともと、悠生くんは文化屋雑貨店でもぷりぷりくん(セクシーキラー、現星葡萄)の展示でやった1日だけの夜フリマでも、フィールドレコーディングしたカセットテープに短編小説つけて売っていて、わたしも1本買って、なぜだか、ずっと机の上に置いていて、それは机の上に青いものばかり集めていたからなんだけど、常に仕事中には目に入るような存在だった。が、しかし、音を聞いたのも中の小説を読んだのも最近のことであった。能生と打ち合わせのときにカセットデッキを持ってきてもらって、聞いて、もう、そのカセットテープは能生に渡しちゃったから今手元にはないんだけれど、海の音と、蕎麦屋の音が入っていた。海の音は録音難しいんだよねーとかなんとか能生が言って、音楽家のフィールドレコーディングのそれとはまったく違う、まったく、少しも音楽的ではない情景の切り取り方に小説と同じ感触を持ち、それはそのまま本人そのものの印象であるな、というようなことを考えていた。墓石かー。というわけで、2回目に出演が決まってわたしはそうとううれしいです。今後もこのシリーズは続き、ほんきで自分がやばいと思っている人を誘い続けるつもりなので、ぜひ、来てください。即興演奏から、ブログ、トークを挟み、朗読までたどり着いた時に、言葉を話すということに対する意識の使い方、声について再発見するという過程を経て、演劇やったり、やっと弾き語りで歌を歌えるというところまでたどり着いたのであった。そして、文章をもう一度、書こうという気分にもなれているので、今年は書くぞという心持ちで新年を迎えたのであった。