吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

よし、頑張ろう

 とりあえず90年代の少女、女性マンガ論に関しては他に追随を許さないほどに研究していきたい。

 私が90年代を過ごしていたときは、80年代にあこがれていて、現在なんてちっとも楽しくないと思っていたが、こうしてゼロ年代を向かえ、終わり行く最中、あれはあれで新しさもあって良い時代ではなかったか、とか思うようになっている。同時代性が喪失してしまった現状では何を希望にしていいのか。だからかそれなら好きなものを希望にしてもいいのだ。そんな自発的に選ばなくてはならないのは苦痛。引きこもる。それだけではダメ!サバイバル〜♪いやそこまでして生き残りたくないし。じゃあやっぱ引きこもる。それでは何も変わらないYO!「敢えて」物語に、ゲームに乗ろう。だってそのルール考えたのは俺じゃないし。だからここでいくら熱くなったって俺とは関係ない。だからここで熱くなる俺はゲームに無理やり乗せられてしまったから仕方なく、だ。仕方なく、だ。といいながらその世界に酔っていく。でも、それって王道じゃね?これって、人として「正」しくね?というような心境に。では、正しさだけが人生なのかといえばそうでもなくね?という疑問が沸き、どうせならと一番、残酷な方法を集めてしまう。19人殺傷。死刑に焦がれる。自殺とほぼ同様の、消極的な積極性を持って行動。自分と同じ絶望を全人類におすそ分け。こんな気分で、ほんとうは生きたいということを訴えるのはあまりにも哀しすぎる。だけど、じゃああなたがその誰かを救うのかといえば、無関係。遠くなって霞んでいく。だったら、やっぱサバイバルじゃね?誰かを殺して俺が生きる物語に説得力。あああああああなんということか。これらはすべて希死に基づいている。希死という甘いご褒美がある世界にこそ、有効なルールである。このルールは乗り越えなければならない。

 90年代はこの希死ーーー終末があった。ノストラダムスの大予言が有効であった時代のいつかは終わる人類ならば生きましょうという後ろ向きなポジティブさがあった。私たちはその先の地平にいる。ではここで何を、どう、信じていいのか。あなたはあなたの信じるあなたを信じていいの。だとか言われてもそのあなたを信じられないあなたは何を信じればいいのか。適当で良くね。とりあえず目の前の者を守ればいいんじゃね?それ以上、手を広げる必要はあるのか。といって、それは一つの理由になる。小さな集落を作って死を迎える。豊かで、平和な日々だ。誰も苦しまない。でもどこかで、もう知ってしまった事実を思い返す。こんなんじゃダメだとどこかで想う。知らなければこの世界に疑問を抱かなかったであろう。けれど、私はもう、それ以外を知ってしまった。これは、引きこもった状態と同じである。逃げなければならない逃げなければならない。それは生なのか、死からなのかわからない。とにかくこの場にいてはいけないと思う。


 でも、何処にいけばいいの?


 そう、誰かが呟く時。もうすでに体は干からびており、自力で這い上がることもできない。こうならないために私たちが、今しなくてはならないのは、逃走か、闘争か、問う嘘か。それ以外なのか。干からびることも選べる。選択は無数だ。正しさなんてない。この「気分」を共有しているのが同時代性というやつなのさ。