吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

がくえんゆーとぴあ まなびストレート!第8話を観たー。

 第一話から『ココロ図書館』(●【m-serve】 ココロ図書館●)との類似性を感じずにはをれないアニメでしたがいよいよ明確に敵が「学園祭中止」「学園がなくなる」に決定し、さらに似ている展開に(予想していたとおりです)。しかし、このまま「学園祭中止」or「学園がなくなる」を回避するのは「奇跡」なのか「人の心」なのかというオチがつくと『ココロ図書館』とまったく同じになっちゃうんですが、そうするのか、そうしないのか。私としては違うものが観たい!ベタに「生徒達が学園に関心を持った」ということで、回避にするだけとなると『ココロ図書館』の10〜12話のテンションは超えられないんじゃないんだろうか…。とか心配になりつつ。いや、ベタな展開もいいんです。ファンタジーですから。誰も悪い人なんかいない、願えば叶う。奇跡は起きるってご都合主義的展開だと思わせておいて翻したココロ図書館…。5話での怪盗ファニートータスとこころんの対面で「このアニメはファンタジーやで。突っ込むだけ野暮や」と気づかされてからの怒涛のご都合主義の嵐を楽しめばいいんだ…!すべて天国にいる親に祈って困ったことは「奇跡」で潜り抜けてきたのに出ない虹!「虹が…虹がでないよぉ…」「こころん…」。奇跡は何度も起こりません。でも、奇跡は誰にでも一度は起こるのです(『わたしは真悟』)のルールどおり、実は奇跡は一人に一回しか起きてなかったんだよ!図書館の存在理由があきらかになる11話は戦争シーンからはじまり。12話では伏線がすべて明らかに!カタルシス〜。という気持ち良さがあったんですよね。なので私は『ココロ図書館』が好きなんです。

 学園も図書館もどちらも「必要とされないのにそこにある」というところまで一緒であるわけで、『ココロ図書館』では「必要とされてないのに、あるということには理由がある」として、その理由が明らかにされ、観ている人を強制的に納得させたんですよね。あれで納得!?って、私は「あっていい」というか「誰にも利用されなくてもその存在はないといけない」と思えました。だってねえ、にこにこりん…だよ!?もう、いいよ。あって。因果関係とかまったくわからないけど良い作用があることは確かなんですよ。なぜなら、こころんの思考が「良い」に設定されているから。どんなことをしても、彼女から悪は生まれないんですよ。似たキャラクターとして私が思い出すのは『ポポロクロイス物語』(POPOLO CROIS•¨Œê)のピエトロ王子。第18話の「心の森」でのエピソードがその性格をよく顕していた。簡単に説明するとこの回の話は誰にでもある不安を増大させ相手へ精神攻撃する敵にあうんだけど、ピエトロはその敵に楽勝で勝っちゃわけ。敵は絶望に追い込むために一番、想像した中でひどい幻を見せつけられるんだけど平気。むしろ、敵の考えを変えさせちゃうくらいの「え?」っていう態度。あきらめない。信じる。今日ダメでも明日がある。という、気持ちが悪いくらいのポジティブさなんだけど(その一方で他の回では自殺未遂も…)それが、絶望的な現状を変えるきっかけになってしまう。まなびの「まっすぐゴー!」もこころの「信じれば奇跡がおこる」も同じ。現実ではそんな簡単に割り切れるものじゃないけど、アニメですからファンタジーですからどうせなら美しい夢が観たいわたしとしてはその、ただ信じるだけで事態が良い方向に向いていくっていう楽観がむしろ、今、あってもいい考え方なんじゃないかなーというか本当に絶望していて明日なんてない日なんて昇らないと思ってるときにさくらちゃん(『カードキャプターさくら』)じゃないけど「絶対、大丈夫」の呪文をかけてくれる人って必要じゃないかな。とか思うわけです。あるものも淘汰して便利で何かの意味や役に立つものだけ残しましょうぜな世界ですあなたのいる世界はなんて言われたらどうしますか?そんな無寛容な世界にいたら死にたくなってしまいませんか?

 「いーえ、私は世の中のためになってます。何かの役に立たないよーな努力不足な人が悪いんです」
 と、言う人もいるかもしれません。そういう人にはこういう作品は必要じゃないでしょう。『ジョジョの奇妙な冒険』とか天才が出てくる話をオススメするかもな〜。いらいらすると思うもん。このアニメ群は。

 でも、自分が「ええ、私の存在は世の中のためになってますよ」と言い切れる人ってどれくらいいるのでしょうか。そして、その自信を他人にも強要するようになって、天才以外を排除する世界ってオソロシイ。選民思想。まっさきに殺されるのは文化だ。だって、食うためと関係ないもん。今ってそういう感覚の方が強いと思うし、支持されるんだろうけど、その世界はモノクロで色がないし、最適化はあっても発展はない。それが今の限界だといって諦めるのは楽だけど、けど、進むんだよ、という言葉が欲しい。それに、そこで「自分はどうなの」となると、けっこう黙り込まなければならないんじゃないんだろうか。まなびじゃないけど「きらきら」や「わくわく」が足りないんだよ、この世界には!

 なので、私はそういう善しか役割を与えられていない肯定キャラを見てると、ほっこりするし、気が楽になるんですけど、どうでしょうかね。しかし、これ単なるご都合主義(葛藤がないとダメ)だけでそれがまかなわれるとがっかりになっちゃうわけで、まなびはそっちに行くかも〜?みたいなところが8話から少ししはじめているのが気になっている。杞憂だとは思いますが、70%の支持が必要だという愛光学園の理事長同様に納得できる理由が欲しいところ。
 
 そういえば、ニヒリズムのあとにはファシズムが来ると書いたのは伊坂幸太郎『魔王』だったけど、まなびの演説シーンなんかはそんな雰囲気が感じ取られた。善によるファシズムだったら受け入れてもいいんじゃないのか。とか、選択肢が多くなりすぎて迷ってしまうそして、選択したことによる結果をすべて自分の責任でまかなわなくてはならない、だったら自分の代わりに誰かが選択してくれて、それでその選択が絶対間違いにならないキャラを求めてしまってもおかしくはない。でも、まなびは「自分一人では何も出来ない」から「仲間と一緒に」にあることで、大きく間違えない。ファシズムにならないために70%の支持は必要。そして、それができないなら、「学園祭は中止」にならなければならないのだ。


 鬱展開としては「学園祭なんて起こらなかった。結局、私たちのやっていることは無駄でしかない」というオチに行くとは思いがたいのですが、そっちに転んで視聴者やファンを裏切ったら、個人的にはそれはそれで面白いと思うし、「うわー容赦ねえけど、ある意味誠実だ」と思うかもしれない。そういう意味でも「このあとどうするんだろー」と、期待してます。

 あと、メメタァ!って書いてあったね。ホワイトボードに…。