吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

「人がどれくらい幸せであるかという事は、そのまま、その人がどれくらい幸せになろうとしているか、という姿勢そのものなんです。」

 なんて言葉を前に引用したことがある、さて、この季節。5月に生まれた子どもは幸福だ。

 私は自分のことを常に過小評価してしまう傾向がある。自分にとって好いものが他人にとって好いものだという自信はない。同じ共通の感情を持てないのではないか、という孤独感がつきまとう。なので持てたときはうれしいし、言ってよかったなあと思う。

 子供と大人は並列ではないという一文にうなづく。
 こういう話をしているとふちがみとふなとの「Teach Your Children」を聴きたくなる。この曲は1番では大人の視点で、子供とどう関わるのかが歌われ、2番は子供の視点に移り、お互いが歩み寄るという構造になっていていい曲なんですな。この歌の子供=「きみよ 人生はさよならで そうしてきみはきみとなる」(きみはきみとなる以前)というフレーズも納得で、何かを得ていく選択していく過程が自覚的なのが大人であって、そうではないのは子供であると考えると自分の中の大人と子供の定義で納得できるものがある。
 そして続く「子供にはこう言ってあげよう 大人の地獄は長いものだった」という言葉に大人は救われるし、子供にこう思ってもらいたいんじゃないかなぁ。マザーグースのうたで「先生僕はあなたが嫌いです。」という歌があるのだけどれど、子供からの視点だけで大人が糾弾されていく様子で、読むとぞっとします。また挿絵も怖くてライフルを手にもち、大人に憎悪を燃やす少年の姿なのだ。

さて、この子供の気持ちはというと

きみよおさないきみよ
大人の畏れを知らないきみよ
力を貸してやって欲しい
死ぬまで真実を求める大人に

 ここで、力を貸してやって欲しい、と語りかけるのは大人ではない。多分、大人がわに語りかけるのも子供がわに語りかけたのも<友達>だったと思う。<友達>からの言葉だから、大人/子供と分断されずに、偏見を持たずに理解できたのではないだろうか。と、なると大人にも子供にも友達が必要なんだ、という気がしてくる。友達、というのは「互いに心を許し合って、対等に交わっている人」のことだ。ここには上下関係はない。あいつは大人だから信用できない、子供だからバカだと感じるとき、そこには対等さは生まれないのであろう。
 で、そんな大人と子供がどうやって歩み寄るかというと

きみの人生の夢のどこかを一緒にわかちあえればいい

 大人にも子供にもこの<友達>は同じ助言をするんですね。どこかを一緒にわかちあればいい、それだけでいいんです。全部をわかちあうことはできない、という。大人と子供は互いに心を許し合って対等に交わっている友達ではないからでしょう。
 子供にとって人生の地獄はこの先長く、大人にとって人生の地獄は長いものだった。それがわかれば、相手に対して卑下したりすることはないんじゃないんだろうかーと。
 
 さらに連想を広げていくと、「まあいい。おれが悪かった。許す」 - 日日≒日キで引用した、平川克美氏の文章「おとなは「謝罪しながら許しをあたえ」、子どもは「断罪しながら許しを乞う」」も思い出す。
 と思って、9月くらいの日記を読むとそういうことをよく考えていたらしくそんな引用がけっこうある。

自分が100パーセント許されることを期待しながら
相手を 1パーセントも 許さない 人間だったのよ
そういう 人間が 他人を 愛せると 思う?
山岸凉子/朱雀門

 
あと、自分が書いてるので
無知を公言するのはバカになる勇気がある人だけ良い - 日日≒日キ
も、いいこと書いてた!

 自分が子供の頃を思い出して悔しく思うのは子供なのに重い責任を取らされる状況に追い込まれたときにすべての大人を憎んだ時期があったことを思い出すと、どう考えても思い出しても大人になる覚悟も勇気も責任もないのにはじめから大人にさせるのはどうかと思うし、覚悟も勇気も責任もとらずに、大人と同じ権利を得ようとするのも図々しいしそこから何も学ぶことはできないだろうな、と思った。だとしたらそれは不幸だろう。