吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

おまえは誰だ

http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20060405/1144214716

 の補足。

 『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』萩元晴彦 村木良彦 今野勉 著の中の章、『□テレビ的表現とは何か』で「問 テレビジョンになにが出来ると思いますか。」と立場や職業の違う様々な人に質問をして回答を得る。そして、その答えから一つの結論を導き出すのではなく、あくまでも現段階では「仮託」であるとした。最後にさまざまな人のいう「テレビジョンとは○○だ」という断言「おまえに捧げる一八の言葉」として、羅列する。その言葉の中から浮かび上がる「テレビジョン」は単一のことを指し示すのではない。個人個人が受けるイメージによって差異があること。そして、それはテレビジョンの現在を語る唯一の方法であると提示しているのだと、私は感じた。

<お前はただの現在にすぎない>

二〇世紀が始まったばかりのシベリアに、二〇歳の革命的楽観論者がいた。十九世紀は楽観論者をあざむいた。だから彼は、「ニ〇世紀」に未来を賭けた。そのニ〇世紀がやってきた。

 この新しい世紀は、しかし、出現した瞬間に、憎しみと殺戮、飢餓と流血をもたらした。血まみれのニ〇世紀は、若き楽観論者に怒号する。

 「降伏せよ、哀れな夢想者。おまえが長いあいだ待っていたニ〇世紀、おまえの<未来>であるこのわしがやってきたのだ」。

 「いや」と卑下することを知らぬ楽観論者は答える、おまえは-----おまえはただの現在にすぎない」。

 (I・ドイッチャー編、山西英一訳「永久革命の時代」より)

本のタイトル、繰り返し出てくるこの「お前はただの現在にすぎない」はここからの引用という事。ただ、続けられる文章を引用すると、原典の意味そのままだけではないと意味が付加される。

 だが、ぼくらは原典の意味をなぞるために、この言葉を標題としたのではない。

 「テレビ---お前はただの現在にすぎない」とは、即ち、テレビの同時性(即時性)に対する「権力」及び「芸術」からの否定的非難の言葉として、ぼくらに発せられているということなのだ。

 (中略)

 テレビが堕落するのは、安定、公平などを自ら求めるときだ。

 など、ここまで引用してしまうとはっきり言って買ったほうがいいだろう。すっごいおもしろくってコーフンしたのでみなさんも興味をもたれたら読んでみてください。この本は1969年発行なので、今で言うこの「テレビジョン」というメディアをインターネットだと読むといろいろ合点がいった。インターネットが堕落するのは、安定、公平などを自ら求めるときだ。自主規制された言葉ばかりがならんで日和るよりは革命を!私がインターネットに期待するのはそういう現在なのかもしれない。