詩をうたうのだ
今回、たくさん人が出るようなフェスティバルに出てみて、改めて気がついたがほんとうにもう、ちょっと無理です。声を出すということがどれだけ精神と肉体に負担なのか、いや、そこまで思いつめないと客に対して失礼だと思うわけで、自分が納得いく演奏を行うためには演奏以外の不愉快を減らして望まなくてはならないのですが、それがうまくできなくてここ2日間ひじょうに苦しんだ。いや、まだ、苦しんでますが。この苦悩が続くのかと思うと、非常に憂鬱。そして、自己嫌悪に陥りたくないために、事前に主催者や共演者などにはそれを伝えなくてはならないのかと思うことがまた、苦痛。前は問題なかったことが今はもう、できないのです。精神と肉体を削るように搾り出して声を出すわけで、これは、私の持病に非常に悪い。筋肉を硬直させて、内部を弛緩させるのですが、終わったあとに、自律神経が乱れているのがわかる。そうなるのはわかっているのだけど、そうしないと、声がでないのです。そして、そのせいで些細なことに対して、非常に神経が過敏になり、死んでしまいそうになる。ここのところ、ソロをやっていなかったから、気がつかなかったけれど、改めて、やってみて、自分が必要以上にナーバスになっていることがわかる。実は、一度、ひじょうに嫌な思いをしたことがあり、それがフラッシュバックとなって、未だに声を出すことで思い出して苦痛になっているのかもしれない。もし、今の私のパフォーマンスをみて、鬼気迫るものを感じるのならそれもそのはずで、ほんとうに死のうと思って声を出しているからです。このまま、息が止まって死ねばいいと思っている。そこには甘美な官能も何もなく、もっと白々とした生命機器をはずされた存在になる。呼吸して、生きる気がしない。こんなことはもうやりたくない。楽しいことだけやっていたい。けれど、求められるなら、求めてもらえるなら、やるしかない。それが、表現者としての誠実さであると信じている。それくらいしか、自分が生きている意味などないような気がする。剥奪されたら結局は死ぬのだと思う。
先鋭化、深化した先はこんなにも暗黒ですよ。それでも、その道を選ぶのですか? それとも、それっぽい何かで誤魔化すのですか。いっそ、楽しませることが目的ならば苦しまないで済むけれど、この表現に関してはこれがすべてであり、ほかに道はないので、やっぱり、苦悩が付きまとうのです。楽しかったことなんて金輪際ない。これからもない。むしろ、なにもない。ここで私は希望がない世界に私はいるから、美しい世界を想像し、焦がれるようになったのだ。
今。わかってしまった。私が言葉を発見せざるを得なかったのは必然だ。言葉でしか癒されない。言葉にしか救いを見いだせられない。無視され、押し黙られた言葉を、私は探しているのだ。言葉に希望を、と、願う。一縷の望み。託せる想いはかけがえない。失った言葉を取り戻す冒険。幾重にも分裂する先。相容れないまま。全然だ。
とにかく
生きていた
生きているということは
呼吸をしている
ということだった
それでも とにかく
生きていたどこもかしこも
白茶けていた
生きていた
とはおもっても
生きていたのが幸せか
死んだほうが幸せか
よくわからなかった
戦場/花森安治より抜粋